片岡力『仮面ライダー響鬼の事情 ヒーローはどうされたのか』(五月書房)

 「仮面ライダー響鬼」の事情―ドキュメントヒーローはどう〈設定〉されたのか
「仮面ライダー響鬼」の事情―ドキュメントヒーローはどう〈設定〉されたのか
 昨日も書いた通り、まず、この本は、例の「プロデューサー交代劇」のことを書いた本ではない。ちょっと思わせぶりなタイトルになっている、というより、この作品を知る人ならば「事情」と聴けば「交代劇」をすぐに思い浮かべざるを得ない状況下でこのタイトルにすれば、受け取る側が勝手にそう思って買う、という、複雑な本。東映公認にならず、出版が難航したことは、このタイトルになったこととは…余り関係はないと考えていいのか。
 更に複雑なのは、著者が、企画の最初の最初、それこそ、実は「非ライダー」として出発した正にその時から、っプロデューサーと一緒に設定を考えに考えた人でありながら、放映開始直前に、そのプロデューサーから解雇された人である、ということ。
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 だから、タイトルから、「29話まで派」だったら期待するかもしれないように、「プロデューサー擁護本」ではなく、むしろチクリチクリと、終盤で、プロデューサー批判の面がある。
 しかし、この、解雇されたということは、何と「おわりに」ではっきり書かれており、それまでずうっと読んでいる間は気づかなかった。つまり、まるで恨み節めいた書き方ではなかったのだ。これは素晴らしいことだと思う。
 「生みの親でありながら放映という『出産』にも、引き続きの文芸協力という『子育て』もしていない人物」という大枠を取っ払ってしまえば、この本の内容は、
響鬼響鬼になる前の、本来はライダーシリーズではないものとして考え始められたものが、いかにライダーシリーズに取り込まれ、放映日を迎えたのか」
という、「資料」である。最初の最初から記者発表までを、内部の人間ではあるものの冷静な目で書いたものである。
 東映公認でないので、デザイン画や詳しい資料もなく、本当に字ばーっかりだという点は、特撮関連の本としてはハンデだが(読むのに3時間ぐらいかかった)、これは東映と無関係の別の出版社から出すことになった以上、著作権の問題もあるので致し方ない。
 私も、この本は、正に周辺の「事情」を取っ払い、かなり離れたところから普通に「設定資料の文章版」として読んだ。それでよかったと思う。
 親会社・デザイン会社・オモチャ会社・TV局という、特撮の放映に関わるいくつもの会社の関係、綱引きといったものは、素人の私にはわからない。ただ、非ライダーとして考え始められたものが最終的にあの作品になっていくまでの、「ものづくり」の過程は、実に色々な設定があり、かなり面白く興味深いものだった。私よりももっと、この業界に詳しい、あるいは、実際に文章にしろ絵にしろ、「作る」ことに関わっている人になら、もっと楽しめると思う。
 本当は、あの実際の作品になるまでに、実に色々な案や設定が出ては消え、中には著者自身が惜しむのも当然といういい案もあった。(で、「自分の案が採用されないからとヘソを曲げている」という、プロデューサーからの「解雇理由」は、誤解であると筆者は述べている。)
 けれど、実際には、私が最初に数話を見た限りでは、時間的制約もあるし、正直「いいとこどりの設定」にしか見えなかった。だから今回この詳しい本を読んでみて、「ここまで色々考えた過程がありながら、結果ああなってしまっているのか!」という驚きは大きかった。何かを形にするには過程が大事だが、結果が過程をどこまで反映しているかは、本当に、できてみないと当事者にもわからない。恐ろしい事実である。
 ただ、著者が、「自分が関わっていて、企画書と実物の違いがわかる」としている1、2話だけについて、著者が細かい批判をしているのだが(第1話に対して、第2話での響鬼の戦い方がおかしい=少年を逃がすという最大目的が果たせていない。屋久島には存在しない蛇が映ってしまっている。詳しくは本書にて)、これについては、私は見ていて全く気づかなかった。著者は、「あのプロデューサーにしては珍しい甘さ」とし、この第1、2話に、後の事件の伏線はあったように思う、としている。が、個人的には、そこまで広げて考えるのはどうかと思う。もしかして、もしかしたら、確かに、私が感じてしまった「いいとこどり」感も、このあたりの、背景の割には目につく(らしい)甘さのせいかも…なのだが。
 しかし、確かに、主演俳優の、新しいバチの削り方がおかしいのは、言われてみれば確かにそうだ。右手を左手で固定せずに右手だけで削ってる…うーん。H氏が、子供の頃に鉛筆を削ったことがないとは思えないのだが。(また、実際に太鼓の演奏を見たり演奏者の著書を読んだりもした筆者は、H氏のアクションについて苦言を呈しているが…まあ…確かにそうだが、ちと厳しいかもしれぬ。)
 と、細かいことは再び措いて。
 あの事件については、あとがきの最後にほんの少しだけ言及されている。
 「――五年前の『クウガ』の時と違って『響鬼』ではもう、番組づくりを通してやりたいことが高寺氏自身の中に残っていなかった(このことは筆者が文芸チームにいたときにもしばしば話題にされ、「『クウガ』の落ち穂拾い」と半ば自虐的に表現されていた)。だから、ちょっと見には新鮮に映るかがしかししょせんは表層的な思いつきの羅列に番組が終始してしまい、肝心のテーマがハッキリせず作品構造がブレてしまった。逆にいえば、テーマや作品構造把握がしっかりしていなかったため、せっかくのアイディアが十分に活かせないまま、その場かぎりの思いつきで終わってしまったのだ。」(372ページ)
 「そして何にもまして、明日夢という少年の存在そのものが、途中から「やっぱりコレ、要らなかったんじゃないの?」といったものに成り下がらざるを得なかった。」
 この部分は、あの交代劇に関して、私にとっては一番スキッと納得できた文章である。それに、交代劇をめぐって噴出した(主にネット上での)百家争鳴のいくつかも、ここに当てはまるのではないか。
 結局、当初の「非ライダー」のまま行けたら(ライダーになってしまったのは、他局の人気特撮の存在が大きく関わっている、と本書にはある)…、せっかく、「バディ」「継承」というコンセプトはかなり早い段階で出ていたのに、どこでブレたのか…、と、思う。このあたりの謎が、出来上がったものを見てみたら何だかいいとこ取りっぽかった、という私の感想にもつながるのかもしれない(しかし断っておくが、回が進むにつれ、キャラクターの魅力で惹き込まれていった、大好きな作品である!)。
 この部分を、交代の理由として色々出た説と照らし合わせてみても、余り矛盾はしない。著者がえんえんと指摘してきた、「活かせなかったもの」の多さ、そのくせ「表層的な思いつきの羅列」の積み重ねの、行き着く先が表面的には「スケジュール遅れ」「予算オーバー」となったのであれば、最もまことしやかにささやかれたこの「プロデューサーのミス」説も、結果的には当たらずしも遠からずということになろう。
 それに、私も、「要らなかったんじゃないの?」と中盤で思い始めていたクチである。
 だから、結局は、放映開始まで収まらなかった、プロデューサーの中でのブレが極まった時、正に交代劇が行われたのだ。とすると、あの交代劇は、人を代えたかったのか作品を変えたかったのかということになるが、これも結果的に「両方」である。
 交代後のプロデューサーは、「『ヒビキと少年の物語である』ことは崩さない」ことを第一にした、と述べているが、つまりはいかに最初のコンセプトに立ち戻り、守り抜くかという苦心を委ねられたのである。で、あくまでも結果的にではあるが、何とか形にはした、ということになる。細かい所の不自然さは、それこそ議論百出毀誉褒貶の嵐であった映画公式ブログのコメント欄を余り思い出したくはないが、挙げればキリがない。しかし完全ではないが、やったことはやった、といえるのかもしれない。(と、このあたり非常に言い切らない文末になっているのは、個人的好みとして30話以後が「好きではない」からである。筆者も言う通り、「だからといって、『響鬼』は三十話から良くなった」とは口が裂けても言えるものではない」。しかし、新Pと脚本家の努力は認める。)
 また、細かい所では、一度ボツになった「DA巨大化案」は、映画版のI上脚本では使われたりもしている。表面的なまずさ、齟齬以上に、実は本来の設定をかなり知ってはいるのだなと、逆に本書を読むとわかったりもする。(剣を使う鬼というのも、実は早い段階で出ていた。)
 本書は、使われなかった設定も含めた、文字通り「いかにして響鬼はあの作品になったか」の過程の本である。そして結果として、人間同士のことで、どういう誤解があったのかはわからないが、誤解で筆者はプロデューサーに、「出産」直前で解雇されてしまった。しかし恨み言ではない。色々な事情は考えつつも、まずは虚心坦懐に読んで、それから、自分の中の印象や、誤解や、願望と照らし合わせてみる、そんな本である。
 「『私が/誰それが、言った/言わない」という特撮業界スズメの狭隘な関心を満足させるためにしか本書が役に立たないとしたら、本書はすぐにでも焚書・絶版に処されるべきだ。『響鬼』という作品をより深く理解し、かつ繰り返し楽しむためにこそ、この本はある。そのことだけは言っておきたい。」(368ページ)
 と、筆者も言っている。が、確かに、狭隘な関心を満足させる本ではないが、より深く理解したい人がどれだけいるかというと…結果として、この本は「響鬼」好きでこの本の存在を知っている人なら買うかもしれない(私も珍しく、買った!)。で、買ったのが「特撮業界スズメ」なら、「何だよ、やばい裏話じゃないじゃん」でポイで、そうでない人でも…まあ、作品を作品として楽しんでいる人なら、この本を読んで、「ああそうか、色々な過程があったのだな」と、興味深い。そういうことである。
 ただ、東映公認にならなかった内容であるにも拘らず出版したことで、
東映がらみの仕事が来ることはまず、なくなった。ということは、特撮ライターとしての命脈を事実上断たれたことになる。
 しかし、特撮ライター生命と引き替えにするだけの意味が本書になある、といまは信じたい。」(374ページ)
 …これはどうだろう。確かにこの本には相当の価値がある。が、「信じている」と言うように、仕事生命を捨てるほどの価値があるかは筆者の主観の問題である。公認本になれるようなマイルドな書き方をしたくはなかった、と言うが、
「そのアイディアがどのような発想から生まれ、どのような議論を経て、どのような外的な力を受けながら、最終的にどのようなものになっていったのか……つまりは一番肝心なのは「中身」である、というきわめて単純明快なことなのだ。」(366ページ)
と言うのならば、もしかして、東映公認で出せるような歩み寄りがあってもよかったのではないか、と思う。つまり、何もそんなに1人でかっこよく見得を切らなくてもね、ということ。
 確かに、「はじめに」で、公認本になるということはいつもほとぼりが冷めた頃であって、正確な記録にはならない、とは述べている。しかし、何とか、中間点をというか、より広く読んでもらえるような形態にならなかったかと思う。
 「響鬼」成立過程は、断片的には東映公式関連本(写真集『魂』など)で語られている(「魔法」の要素が同年のマジレンに配慮して消えていったことなど)。が、ここまで詳しい、文字通りの設定話は他にない。
 やたらとこの本の肩を持つ気は全くないが、現状のように、読む前に色眼鏡の方が強くなってしまうような状態では、この本の「中身」のためにも余りよくないと思う。ライター生命を引き換えたことで、文字通りそこでプツンと「終わり」になってしまっただけで、余り、「最初はこうだったが、作品になった時はこうなっていた」という本書の内容が、逆に、何の役に立つのかということになってしまった。筆者は「響鬼」ファンにだけ届けばいいということなのだろうが、余りにも「終わり」にしすぎて、この本の方こそ「生みっぱなし」にしているような気もする。個人的には、何かもう少し何とかして、ものづくりの過程として非常に面白いこの本を、「響鬼の本」として出せなかったかと思う。もしこの本が、オフィシャルな「響鬼関連本」の1つとして読めていたら、もっと後々のために良かったような気がする。…というのは、余りにもオトナでマイルドで、筆者の意図も何もかもひっくり返すような意見だが。
 (あと…もし「解雇」されなければこの本は書かれていたか?というのは禁句か…。もし、筆者が加わったまま放映が29話まで進み、交代劇を迎えたら、プロデューサーに対する評価はどうなっていただろう。)