今日の本 5/18完成

マルキ・ド・サド 澁澤龍彦訳『ソドム百二十日』(河出文庫

 悪人四人が美少女美少年に強蔵(意味は書きません(笑))を集め(正確には、かっさらってきて厳正なるオーディションをして)、これから4ヶ月、すんごいことをやろう…
 という話の、序章(と第一章だったかな)のみ(笑)
 超寸止め地獄!(笑)
 「詳しいことはこれからたっぷり」と繰り返し書かれていていきなり終わるという(笑)
 もっと読みたいような、でもよしておきたいような。(何をするかっつったらナニですから)

澁澤龍彦玩物草紙』(朝日文庫

 早くも、今年のエッセイベストワン最有力候補!←勝手に。
 毎回ひとつの物についてのエッセイで、まさにエッセイらしいエッセイ。オチとも韜晦ともつかぬ結末。
 著者の個人的な少々ヤバめのことも書いてあるんですが、いいんでしょうか…(^^;)
 タイトル、凄くいいなと思っていたのですが、あとがきによればこれは『書経』の「玩物喪志」のもじりなんだそうです。へえ〜。こういう、人に起こりがちなことをぴったり表現する言葉があるんですね。著者としては、観念を物のように弄ぶくせが自分にはあるのではないか、とのこと。でもそれがエッセイかもしれない。
 いいじゃん、弄んでみて、面白いものが書けるんだから…
 今更言うのも当たり前ながら、読書というものは浮世を忘れるため以外の何物でもなく(読書から何かを得ようなどということ自体が間違いだ、と古書店中山信如氏も『古本屋おやじ』に言う)、この澁澤本というのは見事にそれができる。はっきり言えば、生きていくにはな〜んの関係もない、ど〜っでもいいことをずっと考えている、その結果が書かれているわけです。当然、私たちが読んで知識は増えてもその知識は全く生活には必要のないもの。そういう本を読むことこそ、最高の浮世忘れです。本らしい本であり道楽らしい道楽です。(人に道楽を提供できる道楽って究極の職業だなあ)
 生まれ変わったらこういう生活をしたい、と非常に羨ましく思いますね。
 「思索人生」たる条件はこんな感じでしょうか。
 1)男に生まれる。
 2)元々遺伝的に頭がよい。(都会生まれで、お金持ちだとなおよい)
 3)絶対に東大に入る。あのキャンパスはやはり独特。
 4)東京の都会か、そうでなければ鎌倉に住む。
 5)優しくて献身的で生活の知恵がある奥さんをもらう。
 6)機械が苦手。
 7)長生きを望んではいけない。生きてもせいぜい50代まで。
 大学出たら何かニ、三冊書いて、あとはずーっと思索。考えたことを書いても書かなくてもいい。う〜ん、何て幸せな人生だろうなあ。
 考えてみればプルーストなんかもまさにそれで(多分頭はいいんだろう)、ど〜っでもいいことをず〜っと考えて、働かなくても遺産で食えて、生涯になしたことといえば社交と小説が1作だけ(評論は素晴らしいものをいくつか書いていますし、短編は他にもありますが)。そういう人を神様が作ったとも言えますが、やっぱりこれも羨ましい人生。彼も高名な医者の息子で母方はユダヤ人のブルジョワプルースト自身は文学にハマり家業をはなっから無視するも、お父さんそっくりの顔の弟が医者になり、病弱な兄を支えた。いるんですねえ、こういう人。
 今、無性に隠者になってみたいと思う。生活がめんどくさい。昔の貴族は「生活?(人生だっけ)そんなことは召使に任せておけばいいのよ」と言ったそうですが、ああ正に、雑事俗事は誰かに任せて、他のことがしたい。前の晩に弁当の準備なんかしたくないし(笑)
 お金のためでなかったら、本当は外に出たくない。
 田舎に引っ込みたいというのではなくて、都会の中を一人で歩き回ったり、家に引きこもったりしたい。元々が東京者なので、本当に静かな場所は怖くて仕方ない(道路の音がしないと眠れない)。人が大勢いて、その中を一人で掻き分けながら歩くのが好き。たまには華やかな場所を一人で歩き回るのも、家で一人でいるのも好き。誰も自分を気にしていない孤独、がいいのだ。物理的な孤独は怖い。

澁澤龍彦華やかな食物誌』(河出文庫

 Ⅰは、食べ物の故事エッセイ。もっと読みたかったのだが掲載誌が6号で休刊になってしまったので短い。以後は、普通のエッセイ、美術や日本文化についてのエッセイ。この方はヨーロッパのみならず、本当に日本のことを書いても素晴らしい。美術、そしてお相撲も大好きなんだそうだ。
 この方は所謂文壇とは無縁で、孤高独歩と表されていますが、確かにその興味の広さと筆致の的確さを考えると、それでよかったと思います。かっちょええよ、澁澤っち。

ジャン・ボテロ 松島英子訳『最古の料理』(法政大学出版会)

最古の料理
 読んで字の如く、メソポタミア古代文明における「料理」の研究。そういえば高橋克彦も、『竜の柩』の中で、「古代の中東でも、イメージとは違ってとても美味しいものを食べていた」ということを登場人物に言わせている。古代といえば何事も野蛮と決めつけるのは本当によくない。
 この本でも、竈についてのくだりで、「不可解なものはすべて宗教に結びつける」学者を批判されている。地面を掘って回りに石を並べた遺跡が当初は生贄の場とされていたのだが、これも同じく学者によってだが、メソポタミアには、生贄の習慣がなく、従って、捧げ物を焼く必要もないことが証明され、単純に竈であったことがわかったのだそうだ。
 古代ローマの料理については、いくつかの研究書も読んでいたのだが、更に古いメソポタミアのそれとなると、まだまだ研究は緒についたばかりらしい。この本では楔形文字で書かれた古代の「レシピ」を解読していくのだが、既に相当な種類の香辛料や調理法があったことはわかる。確かに、中東原産の香辛料は結構あるし(昔は今ほど砂漠でもなかっただろうし…)、肉や魚を煮る・焼く・茹でるなど今とさほど変わらない調理法で食べている(そこへいくと、胡椒の伝来以前のヨーロッパの肉食の方が大変だったかも)。人間、やっぱりまずいものは食べたくないのだな。
 やや話はずれるが、開高健『最後の晩餐』の最後のくだりは、人肉食であった。例の、アンデス山脈に墜落した飛行機の生存者の話である。この文章も素晴らしい。
 生存者たちは、キリスト教の力でタブーを乗り越え、死亡者の肉に手をつける。最初は干して食べるだけだったのだが、次第に、「少しでも美味しく食べよう」と、様々な料理法を試みるようになる。
 食材があれば、それをより美味しく食べたいという気持ちは、「食べる」という行為が単なる生命維持ではないということの証拠の一つであると同時に、それ自体大変に大きな謎である。