種村季弘『澁澤さん家(ち)で午後五時にお茶を』(河出書房)

 こちらは文庫です↓
渋沢さん家で午後五時にお茶を
 種村氏の、「澁澤龍彦をめぐる文章」をまとめたもの。『新編ビブリオテカ澁澤龍彦』の巻末解説や、対談(澁澤龍彦本人とのものもある)、弔辞、エッセイ。
 非常に参考になりました。みんなよく見ているなあ(笑)やっぱり、いきなり卑小な話にするのもなんですが、まあちょっとこう、お兄ちゃんだけど可愛くて、好きだったんでしょうねえ、皆さん。
 澁澤本人との対談では、やはり彼の文章は表現が平明であるが故に誤解を受けること、つまりまだ若くて物の区別がつかない人(中学生)や、本当にヘンな人(精神病院にいる人)に読まれて、著者までヘンな人だとか本当に魔術を使えるとか(!)思われて、何度も電話がかかってきたりという「被害」があったことを澁澤氏も種村氏も述べている。うーん、十分予想はつくけど、やっぱりこういうことあったんだなあ。文章がわかりやすく、書いてあることはすごい、っていうのは、本当は文学としては理想的な形なのにね。
 優れたものはある程度読者を選ぶ、ということはあると思うんですよ。
 これは選ばれた人間が偉いと言っているのではなくて、運命というかお互いの幸福のために、時間が用意してくれている時期というのがあるのではないかと最近つくづく思うのです。
 大人になるとは一言で言えば、「自己と他者の区別がつく」ということでしょう。
 読書のみならず人生そのものでそれが一番大事なことで…今回は一例として読書を挙げているのですが、前々から書いているように、著者を自分のレベルに引き下げること、勝手な著者像を作り上げることも、「区別のつかなさ」でしょう(「澁澤ファン」と言うとオタクかつ乙女チックだと思われそうなイメージがあるのも、力のない読み手が傍から見たらいかにヘンな思い込みをするタイプの人だったかってことだよなあ)。
 私も、その当時に著者がヘンな人だとは全く思わなかったものの、実は最初に「澁澤もの」では翻訳作品で出会っていたのに(レアージュO嬢の物語』、バタイユ『エロティシズム』)、それらを読んで結局売ってしまった、という恥ずかしい過去があります(笑)。つまり、20代前半当時の私は、文章はともかく、澁澤氏が好み訳したジャンルのものを、全く理解できるレベルにはなかった。しかも私の20代というのは、今から考えると多分普通の20代よりもかなり幼かった―就職するまでは特に―ふしがある。
 やっぱり、この30代までは、澁澤本人とは、出会わないようになっていたのかなあと思います。
 もう一つ。出口裕弘氏との対談で、澁澤龍彦は「エクリヴァン(作家)」、ものを書く人であり、「表現者」ではない、というくだり。
 ああなるほど、でした。彼の小説作品は必ず他の古典作品を下敷きにしてかつ大胆に楽しむものであって、強烈に自分の何かを言いたいものではない。また、「表現者」であったなら、黒魔術や秘密結社といった所謂「異端」をあそこまで客観的に研究、解説できないのかもしれない。納得。
 また、このくだりには、物を書く人即ち必ず「表現者」ではない、ということにも初めて気づかされた。
 そういえば、山田風太郎であれ、見事な「物書き」であっても、「エクリヴァン」の方であって、強烈にまず表現したいものがあってそのために話を作る「表現者」ではない気がする。
 私が好きなのはその「エクリヴァン」のタイプかもしれない。だから所謂私小説系、日本の所謂純文学なるものがわからないのかもしれない。「表現者」に付き合うのは疲れることもある。また、文学のみならず美術にも同じパターンがある。見ていて疲れたり理解できないのは、純粋な創作のようでいて実は余りにも表現者であり創作の要素が薄い作品かもしれない。
 更に、このくだりの直後に、やはり、

 種村:あの人はどっかで一種の倫理家ですからね。倫理的な骨格ってものは最後まであるね。
 出口:あの人は異常性格者じゃありませんからね(笑)。フェティシストでも何でもない。一貫してストイックな生活倫理をもっていたし、あえて言えば非常に明快な文学者で、精神病理学的な対象になるところはないと思うんですよ。
 種村:それが誤って、彼がそうであるかのように思われたのは、一つには六〇年代のあのジェスチャーもあっただろう。だけどそれよりもむしろ、本物のフェティシストのほうがパッと寄ってくるような、いわばフェティシズムに対して無垢なところがあったから、逆に襲われたんだと思うんですよ(笑)。いわゆる澁澤マニアというか、そういう人たちがいるように思われるのは、澁澤さん本人がそれとまったく無縁だからじゃないですか。
 出口:台風の目みたいなもんですね。

 というやりとりがある。
 なるほど〜。
 前半。これは、澁澤氏というのは、戦前から戦後にかけての、由緒正しい家の、中流の上ぐらいの固い家庭の長男で、何が何でも彼をヘンにしたい人には残念かもしれませんが、ごくごく普通の良識をもって育てられすくすく来た人だというのはわかりますね。三島由紀夫との交流なども、傍から見てとても高度で美しいもので、それは2人の、これは揶揄するわけではなくやはり「お坊っちゃん」同士、「東京っ子」同士のスムーズな通じ合いも関係していると思います。
 後半。え、「澁澤マニア」って、いないんですか?(笑)いるように思ってるんですが。いや、この方々自身が、彼と親しいというとどうせ「マニア」(悪い意味で)だろうと思われることが多いのかもしれません。ともあれ、「実は本人が一番無縁なのに、勝手な想像をして楽しむ人はやたらいる」という状態、これは色々な世界にあるのではないでしょうか。所謂カリスマ的な人気のある人ほど、本人は至って普通であったり、あるいは、勝手に書いて楽しむ(勿論迷惑にはならないように)二次創作の対象作品…
 最後に、最後の病室での澁澤氏を描いたエッセイでは、ちょっと萌(以下略)←ああ、今まで書いてきたことがガラガラと(笑)