阿川佐和子『あんな作家どんな作家こんな作家』(講談社文庫)、『おいしいおしゃべり』(幻冬舎文庫)

 『おいしい〜』225ページ、「憤慨ばあさん」。
 これ、女性なら90%の人が納得できると思う。
 「おばさん」=「社会性の欠如したたくましいインテリ」。これ以上に納得できた定義はない。
 どういうことかというと、世の男性が女性に対して「若く美しい」ことだけを「評価の最大基準とみなす限り、その年齢から外れた女は、ひらきなおって強くなるしかないのである。」。
 うーん。素晴らしい。
 阿川さんのエッセイは、私と似たような育ち(元いじめられっ子、彼女は6年、私は12年女子校etc.)ながら必ずしも全てに納得できるわけではないのだが、この一篇にはやられた。
 社会性の欠如したインテリ、というのは、この一篇の例では、「飲食店でやたら傍若無人に声がでかくで迷惑だが話題は広く実に様々なことを知っており、言い方が断定的」。これに類する場面は、多くの人が目にしたことがあるだろう。
 社会性が欠如してるんだけど知識は豊富、が「おばさん」だとすれば、正に私も既にそうなっているわけだ。そーかそーか。いや見事に言い当てられてむしろ気持ちイイぐらいである。
 問題は、この一篇でも指摘されている通り、何故女性が歳を取っても、いや取るからこそ自分磨きや知識の吸収に精を出すのに社会性が欠如していくのか、ということである。そして、その理由こそ、日本では男性の側が女性に「若さ」と「美しさ」しか求めていないことなのだ。
 「まあ、社会のせいにしてもつまらないけれど(略)、『やん、うっそー』の可愛げを持たない年増の女の教養に、世の中が関心を示さないのだから、しかたあるまい。」
 確かに、考えてみれば、外国では、男性は常に女性に対して、「今、その女性がどうであるか」とか、「その年齢だからこそ持っている何か」を評価するという習慣がある。(だから、ある程度ちゃんと生きている女性に年齢なんか訊かないのかも。)
 なのに日本では、目の前にいる女性のトータルの人間性ではなくて、自分が求める「若さ」「美しさ」があるかどうかだけが判断基準になる(外国とは逆に、まず年齢を訊いてから、若くなかったらあからさまに相手にもしない)。生物としての男性が女性に対して若さや美しさを求めるのは自然なことであり、女性にとっても生物としての男は若くてきれいなのがいいに決まっている。だがそれと実際生きている場面での、男性としての女性の扱い方は別である。結局、日本の男性はバカで単純なのだ。
 同じようなことは、女性の「若さ」「美しさ」に加え、「子持ちかどうか」にも言える(これに関しては阿川さんは言及していないが)。男性にとって、「子持ちの女」は「どんな女性が偶々子持ちなのか」ではなく、全員「子持ちの女」で終わり。そりゃ女性の側だって壊れるわ。女性である私だって、子連れ女の集団を見て「ああはなりたくない」と思うが、彼女達の方だってあれは、相手にしてくれない男性の目をもう気にしなくなったなれの果てなのである。
 はからずも、今、団塊世代の男の定年後に、色々な業界が金を吸い取ろうと手薬煉引いて待っている。社会で生きているつもりで実は何も内面のない男たちが、その社会性とやらを奪われた後、どれだけ無駄に金を吸い取られ、どれだけ腐っていくか、実に楽しみである。
 ま、私も多少は、社会性の欠如には気をつけようと思うが。