「野菜にモーツァルトを聴かせても美味しくなるわけがない」

って?〜主義主張の絶対と相対―2点を例に
 最近、自分の主義主張を書くのはいいのだが、それを強調したい余りに、相対的に、他の人のそれを貶めることまでする記述には、私はやけに敏感になっている。以下、この半年ほどに目にした2つのくだりを例に。
 その1。
 発酵学の人、小泉武夫の対談本にて。
「野菜にモーツァルトを聴かせても美味しくなるわけがない」
 アンタが自分の専門分野の視点から何を言おうが基本的には自由だが、どうしても「科学的に根拠がない」と言いたいなら、モーツァルトを聴かせて育てた野菜、酒(会津の某酒造が怒るぞ!)、全部口にしてからにしなさい(ちなみにこの会津の酒造所は全国優勝してます)。
 それこそ、根拠なく人を批判するのはやめなさい。
 前の記事のQさんもそうだが、誰でも、その道の第一人者をみなされると、批判してくれる人も減って、思い上がった決めつけが増えるものなのだとあらためて思う。
 その2。
 「お産のバイブル」として有名な、某O女医の本。
 「吸引分娩や鉗子分娩で生まれた子は、人相が悪い」
 これについては、もう呆れるほかない。
 先日読んだとてもいい(というのは、珍しく、自分の主張を抑え目にした謙虚な本だから)お産体験本(著者は吸引分娩で出産)に、「このくだりにはとても傷ついた」とあったが、本当に失礼な記述だと思う。お産は百人百様なのに。
 確かに、その百様のお産を医療の介入によって画一化することで起きるひずみがよくないのだ、という、この某本でのO女医の主張は正しい。勿論この本も、上記のような行き過ぎた決めつけだけでなく、いいことも沢山書いてはある。
 けれど、彼女の関わったお産だって、全出産の一体何%なのか。「引っ張り出された」子供をアンタは全員追跡調査したのか。百歩譲って、生まれた直後は確かに吸引だと頭伸びてるし鉗子だと多少はへこんでるかもしれないが、そんなもんはすぐ治る。実際、私も鉗子分娩だった(病院の都合で!)が、頭が変形するどころか、むしろ頭の形がいいことは私の数少ない自慢である(これもあくまで一例ですけどね)。ついでに言うと、人相が悪いのは生まれてから色々あったからである。畜生、誰だって生まれてからのことはわからんわ!(笑)
 このO女医の書き方も、自分の推進する「自然出産」の良さを絶対とする余りの不用意な記述だろう。それに、あくまで「自然」を貫いた結果、上手く行くのか、それ故に大変なことになるのかは、人間には、例え何千件の経験のある医者でも完全に予測することはできない。だから、出産のあり方論争にも、永遠に決着はつかないだろう。だとすれば、関わる者1人1人(スタッフ、患者)が、なるべく、不用意な主張、決めつけは慎むほかはない。
 この「自然」ということと関連してもう1つ。これも、O女医の産院と同じぐらい有名、恐らく日本一有名な、愛知県にある自然出産の産院の(自然出産の草分け的)Y医師の本。大体こういう旨の記述。
「医療介入で無理矢理産まされたという体験をした母親は、その後子供を可愛いと思えない」
 これも、一見正しいように思えてしまう書き方だから怖い(何か、「帝王切開で産んだ母親は苦労してないから子供を可愛がらない」という日本の迷信にも通じる)。
 「産み方で可愛がり方が変わる」などとは、それこそ、「自然」を主張しながら女性を馬鹿にしている。所詮男だと言われても仕方ないぐらいだ。
 確かに、医療の発達によって、母親の側にも「自分で産む」という意識が欠けがちだとは言われる。だが、それを全ての妊婦に拡大して、原因は全て医療介入にあるとするのはどうだろうか。
 私が見て知っている母親の例でしかないが、ずばり、産み方とその後が関係あるかといえば、そんなことはないと思う。可愛がる人は可愛がる。それこそこのY医師は全例追跡したのか?じゃあ児童虐待した親はみんな難産だったのか?みんな医療にひどいことをされたのか?
 なるべく安産であった方が子育てにスムーズに移行できる、というのは助産師さんに言わせても事実らしい。産むことはスタートに過ぎないというのはそういう意味でもある。けれど、それならば尚更、出産方法について色々主張している医師に、いい加減なことは言ってほしくない。どんな母親も、例え難産の後で、慣れるまで時間はかかろうと子供は可愛い。それこそ、産むのが大変で回復も遅れている女性に必要なのは、わかったような発言ではなく周囲の親身なサポートである。むしろ、Y医師のこの記述のようなものを見ると、産ませるまではご大層な「自然出産」を主張しているが、果たして、自分の考えるお産に当てはまらなかった産婦に対してはどんな考え方を持つのか、信用できなくなる。
 このY医師の決めつけも、結局は自分の主張を補強したい余りに、数少ない例を全てであるように後から当てはめているだけのように思う。
 また、最近では、児童虐待についても、「不幸の連鎖」という考え方には疑問が出ているらしいが、これについては私もよく知らないので略。
 ちなみに、本の中身とは関係ないが、帝王切開は、計画でも腹を切られる以上危険であるし、緊急の場合は尚更大変である。後者の場合、何十時間も苦しんだ挙句に切られ、その上「痛い思いをしていない」と誤解される、という二重三重の苦痛を味わうことが、まだまだ日本では多い。(回旋異常で20時間30時間陣痛に苦しんだ挙句に結局帝王切開、なんてのは「痛みのフルコース」と言われ、出産のうちでも最も悲惨な例に入るだろう…)
 そうした現実が少しずつ知られるようになったのと、帝王切開の技術自体が昔に比べればかなり危険性が減ったため(あくまでも昔よりはであって、完璧に「手術」だから危険には変わりない)と、縫い跡もきれいにできる技術が進んだせいか(それを売りにする産院もどうかと思うが…)、一般人は勿論、芸能人でも最初から「帝王切開で産んだ」と言える人も増えている。母親教室や知人で実際にこれで産んだ人に会う機会もあったが、むしろ「死ぬかもしれなかったのに助かった」という意味で、人一倍可愛がっている人が多いように思う。
 余り時間もなく、2(3)例しか挙げられなかったが。
 「自分に主張があるように、他人にも同じものがある。
 自分の主張を説明するのはいいが、常に、絶対ではないと振り返る余裕が必要である。
 人を貶めても決して自分を高めることにはならない」
という当たり前のことを、最近自分でも色々あると、特に考えるのである。
 私自身をも含めて、主張するということのあり方には常に反省が必要である。