高島俊男『漢字と日本人』(文春新書)

  漢字と日本人 (文春新書)
漢字と日本人 (文春新書)
 いや時間かかったわ…
 正確に何日かかったか憶えてないの。多分4、5日だと思う。難しくて、ちびちび読みながら何日も経ってしまったし、最後の方なんかはもうヒイコラだった。新書とナメてかかったのが間違い。他の新書は、そのジャンルの入門篇という意味もあって手軽さがウリだと思うんだけど、この人の本はなあ…いつもの通り歯応えがありすぎだぜ!(笑)
 しかし、「日本語は漢字かな混じり文である」ということが、実は当たり前ではないこと、どころか、日本語という言語を漢字とひらがなで表記するというシステムが本当はいかに無理のあることかが丁寧に解説されていて、難しいけど目ウロコな本である。
 で、そこで終わっちゃいけなくて、そのヘンな言語である日本語の、行き着く先に、戦中の「国語改革」なるものがあり、結局むっちゃくちゃーのぐっちゃぐちゃのまま、そしてこのまま日本語は生きていくほかない…という話。
 何で、「漢字と日本人」なのか、というと、この実にヘンな「日本語の表記」の成立の歴史や、国語改革の異常さの中にも、日本人の悪い所が如実に現れているからなのですね。(で、この類のツッコミでえんえんと1冊書いてしまうのが高島さんなんですな)
 まあ日本人の悪口を言うのは高島さんの本意ではないし、確かに、順を追って読んでいくと、おかしいけれどもそれはそれでもう日本語は日本人なんだ、これしかないじゃない、と思う。
 むしろ、今の若い人は漢字が書けない、正しく使い分けられない、というけれど、こんなに難しくなっちゃった方がおかしいんだ、とわかるし(でもちゃんと書けないといけませんな)。案外、ひらがなのなかった頃の漢字を音だけあてて書いた歌なんて、今の2○ゃんねる語並みに笑える。あながち、ネット社会の新語やら無理矢理当て字も笑えないということがわかる。これが歴史になるかもしれんのだ。
 詳しくはこの本を読んで頂くとして、私の結論を言えば、確かに、
「英語のできない者ほど英語を尊敬し、(略)日本語も英語も言語として同格である、日本人が英語がわからなくてもすこしも恥ではない、とはっきり言うのは、英語のできる人、すくなくとも教育のある人である。」(112ページ)
という意見には大いに賛成だ。
 何故かいつも、「相違」を「優劣」にすりかえてしまう日本人。これはかつては漢字を崇め、取り入れた昔であり、今は、英語ができる人を無条件に尊敬する誤った劣等感。後半に出てくる、明治知識人が、西洋人が作り上げた「一本道の歴史」(歴史は進歩のみである、西洋人以外はみんな「遅れている」)を学んで信じ込んだことも、その表れ。
 私も、長らく、世の中のあらゆるありようは、ひとつひとつはあくまで「相違」でしかなく、「優劣」には決してならない、と思っている。多分このことをはっきりと信じるようになったのは、歴史という学問を好きになった中学生頃のことだと思う。
 だからこそ、言語も、日本人として日本語(の表記)が、高島さんの言うようにいかにヘンな言語であろうとも愛しているのは例外として、英語であれ何語であれ道具だとしか思えない。喋れたら偉いなんて決して思わない。喋りたい人は喋りたいから喋るんだろうし、必要があって学んだのだろうと思うだけのことである。
 そもそも、言葉に優劣があるなら、世界における日本の地位が向上した時点で日本語は人気が出たか?そんなことはない。昔から、「日本に観光に来る外人に話しかけられて答えられるように」って言うけど、アンタそんなの一生に何回ありますか!その気があるなら外人の方が多少の日本語はおぼえてくればいいでしょ。でもそんなこと、1人1人は思ってても集団では言わない。言うと、単に英語が喋れない人間の僻みだと思われるから。正にそれが日本という国で日本人。逆に言えば、日本では、「英語なんて要らない」と言えるのも、英語が使える人の特権なんだよね。
 でも、日本人が英語キ○ガイになって(N○VA潰れましたな)いるほどに、外人は日本語やりますかってんだ。(高島さんの言うように物凄く難しい「漢字を使った日本語」を駆使できる外人さん―パッ○ンとか―は本当にすごいと思うけど。)今、日本のニュースは「日本語ブーム」なんてのを針小棒大に採り上げるのが好きだけど、もし本当にブームだとしたって、それはあくまで商売のためがほとんど。もし、日本語を通じて日本文化を理解しようとする外人がいるなら、この試みはまだまだ始まったばかり。しかも、この本の内容に戻れば、日本文化を学ぶのに役立つはずの日本語というものが、既に漢字というものを取り入れた時から実に妙テケレンな言語であり表記なのである。面白いんだけど厳しい現実。
 とまれ(と、話を強引にまとめる)、私はやっぱり漢字が好きだ。日本語の漢字を使った表記方法というものがいかにヘンかを懇切丁寧に解説されても好きだ。漢字が好きで横文字が苦手というのもあって、歴史は好きだが西洋史は駄目で日本史と中国史に走った。
 漢字が大好きで、東洋史専攻に入学して、毎日漢字を眺めているだけで幸せで、高校までで古文と漢文を勉強していなかったので苦労したが漢文が好きだった(この、漢文というものも、実は中国語を無理矢理日本語読みにしているものなのだ、とは、この本に限らず高島さんが繰り返し書いていることである)。漢和辞典を読むのも大好きだった(そう、大学に入って気づいた、漢字とは外国語であって、「意味を辞書で引くものだ」ということを)。
 あらためてヘンとわかっても…面白くて好きだ。これは多分ビョーキだ(笑)
 日本語をちゃんと書くことには興味があり熱心にもなるけど、英語ができないことにコンプレックスなんかまるでない。
 横文字ですか……そうさね、英語は、英語圏に行けば、観光に必要なやりとりぐらいは、ジャパンマネー(かつては)のお蔭で、日本人がよく行く外国の都市では、相手もそれなりに気を使ってわかるように話してくれるから、ゆっくり話せば大丈夫。日本の英語教育は書く教育だけど、その分筆談ができる。看板やメニュー程度の単語なら、そりゃ学校で習うから意味がわかる。フランス語…学校で1年だけやったから、発音の法則がわかるから地名は読めるし、簡単な会話なら発音が正確じゃなくても身振りや指差しで伝わる。パリの観光地なら英語で十分だし。中国の大きなホテルなら英語OK。そもそも北京語は簡体字が読めるので街中では余り不自由しないし。
 横文字ができん!のは自慢にならないし、「込み入った話」は外人とできないけど、それこそ、「込み入った話」がしたい人、する必要がある人が本気で英語や英会話を勉強すればいいって、それだけのことだよね。あるいは、言語のために言語を学ぶのが好きな人がやっているのがそれこそ「言語学」で、やりたい人がやればいいんだよね。どうしてそう割り切るというか、足元を見ないで、英語ができる=学があるとか、素敵、なんだろう。
 横文字は嫌いだが、道具だから、適当に使えれば問題はないのだ。
 言語との付き合い方なんて、そんなもんでいいのではないだろうか。
 結局、この本を読んで…まあ、読むのは大変だったけど、勉強になったし、あらためて自分のスタンスを確認したし、よかったです(って、小学生の作文か!)。