遅くなりましたが

 数年前に観ていたあるドラマでレギュラー出演者だった女優さんが、先日、24歳で亡くなってしまった。
 非常に可愛らしかったし、綺麗だった。それに、実に努力家だったという。
 花で言えばまだ咲きかけでもこれほどの人ならば、咲き切った時にはとんでもないレヴェルになってたんじゃないかと、亡くなった今だからこそ余計に思う。
 訃報を聞いてまず思ったのは、「その可愛らしさと才能で大勢の人を楽しませる」という、「社会の役に立っている」人がこんな若さで亡くなって、何で、30数年何ら人様の役に立つこともなく生きてきた人間がこうしてまだ生きているんだろうなあ、ということである。
 そりゃあ死ぬのは順番ではない。
 でも、まだ必要な人が死んでしまうのだったら、「生きている」ってこと自体が一体何なのだろうと思う。
 この世に不必要な存在などない、というのは正しいけれど、わかりやすい形で何かに貢献しているかいないかだけで考えれば建前である。
 まあつまり、何だか非常に、自分って社会の役には立ってないなぁ、立ってないのにまあよく30数年も生きてきたなぁ、とあらためて思ったのである。
 明らかに立ってる人の方が珍しいし、立ってるかどうかの基準だっていくつでもあるのはわかってるけど。
 とにかくも彼女の死は残念だなぁ。
 こうなったら、特に役にも立たず大勢の人に必要とされているわけでもないけれど、とにかく生きていることを幸せに思おう、という、まあいつものやり方を、続けていこうとあらためて決めるしかないなぁ。
 まだ必要なのに連れて行かれてしまう人もいるのと同じだけ、ただ生きている人間だっている。いずれは同じ場所に行くために、それまでが長いか短いかだけだし、短くてもその人にとっては長かったのかもしれないし。
 生きている人も死んでしまった人も、全部でこの世界なのかもしれない。
 何となく生きて、一日の終わりには布団に入っておやすみなさいと言う。その繰り返しでも、振り返れば結構な長さになっている。
 きっとこれからもその繰り返しだけど、まあ、それだけでいいや。
 そう思えるのも、「自分探し」なんてものはとっくに卒業したからだしね。
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 最近よく聴くんだけど、自分を探すとか居場所を探すとか…
 ここにいる自分がいつも自分で、「自分」は「探す」ものではないし、居場所も自分で「作る」ものです。 
 というか、ちゃんと自分が自分の心の中にいるのなら、色んな立場の自分(母親、女、人間、仲間、本を読む人、音楽を聴く人、文章を書く人、etc)ごとに居場所を作らなくてもいいしね。自分が帰る場所は自分で用意しておけばいいんだから。
 最後に話がずれた!
 まあつまり、少なくとも私はここ以外のどこにもいない。
 探してる人〜、七色の花は自分の庭に咲いているんだよ〜。(確かそういうオチだって聞いたんだけど、あのアニメ)