入江曜子『貴妃は毒殺されたか 皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎』(新潮社)

 

貴妃は毒殺されたか―皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎
貴妃は毒殺されたか―皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎入江 曜子

新潮社 1998-05
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 これは凄い本だ〜!!
 この入江さんの文章は、『李玉琴伝奇』でもそうだったのだが、ドキュメンタリーなのだがやや小説調で、それが困ったことにまたついつい一気読みしてしまう理由。腑に落ちない(笑)
 内容はタイトルの通り。冒頭の東京裁判での、溥儀の、裁判官側にはまるで信用されなかったが、かつて溥儀自身が誰よりも信頼していた吉岡の人格を捏造し―それを中国人にではなく日本人の方によりそうだったかもしれない―自分を世界に向けて被害者に見せるには十分な、自分の貴妃を日本軍に毒殺された、という溥儀の発言に始まり、満州国首脳部の実情、吉岡=関東軍参謀=の人となりに迫り、再び、では本当に毒殺事件はあったのかという検証に戻ってくる。
 この毒殺事件に関しては、冒頭に出てきて、恩人に止められて東京裁判には出廷しなかった、ほかならぬ貴妃を診察した医師が生存していたので、そんな事件はなかったことを明らかにするのは簡単だった。
 面白いのは、この事件を氷山の一角として、溥儀をはじめとする登場人物たちが、いかに自分を被害者に見せるかという捏造、隠蔽を行なったか、その醜すぎる姿が描き出されている中間部分である。
 特に、嵯峨浩『「流転の王妃」の昭和史』に騙されている人にはこの本を一読してほしい。人生変わるよ(笑)。私もだった。『流転』を読んだ人は必ずこれを読まないと片手落ちです。そうそう、卒論でこの時代を採り上げ、参考に『流転』を読んだ人が、この本と出会われんことを!
 嵯峨浩の自伝の捏造っぷりが、この本のキモと言ってもいいかもしれない(笑)
 彼女は彼女自身が自伝で悲劇的に書いているような関東軍の被害者ではなく、彼女自身も王族になりたくて溥傑と結婚した。(華族というと上流階級ではあるが、その上の「皇族」との臣下の別を、庶民よりもむしろ強く感じており、華族の女性たちには「お妃」になりたい、という憧れがあったことを著者は指摘している。)だが、溥傑は日本の皇室典範に従って作られた継承法ではあくまで「平民」だった。だから彼女も単なる「溥傑夫人」、むしろいわゆる軍人の妻である。
 その不満を全てぶつけたのが自伝『「流転の〜』なのである。
 浩は、単なる「お妃ぶりっこ」でしかなかった。王妃どころか「皇帝の弟の妃」ですらないのに自伝のタイトルが「王妃」(笑)。
 明治天皇とは側室を遠い親戚とした細い細い繋がりでしかないのに、いつの間にか嵯峨侯爵家を「天皇の血を引く家柄」に摩り替える。妃でもないのに妃ぶって周囲の人間に迷惑をかけ、呆れられ、本当は相手にされていなかったのに、所謂”悲劇のヒロイン”になることに一生を費やした人なのである(笑)。
 いやー凄い。つまるところ彼女の「苦労話」は、自分が「(お妃なのに)あんな苦労をした」「(お妃なのに)吉岡に馬鹿にされた」「(お妃なのに)相応しい扱いを受けなかった」・・・全部「自分はお妃なのに」という思い込みを付けて読むべきだ、ということ。一言で言えば超上から目線。そしてそれは帰国してからも続いた。
 その最大の被害者こそが、吉岡だったのである。
 戦後の被害者は、生死不明の夫を待ち続ける吉岡夫人。(結局吉岡大佐はモスクワで病死していた)
 いやー、一世代上の吉岡夫人に、手紙で「そなた」はないよな「そなた」は!
 李玉琴についても、あらぬことを言いふらしたり…全く、おとなげない。
 考えてみれば、苦労したとは言っても、苦労ならあの時代みんながした。むしろやはり「上つ方の人」であり、特権的な逃亡生活を続けたというだけの人間を、真っ正直に崇め奉っちゃいけないんだなーということが、今回の本を見てわかった。
 自伝で、ただただ自分の職務に忠実だっただけの、欠点がむしろ真面目すぎることだった(…よく聴くよねこういう人…損しますよね…)吉岡大佐の人格をいいように捏造し、夫人が死んだ途端に自伝の「Y氏」を実名にするあざとさ!
 更には、自分の娘の心中まで、自伝では「誘拐殺害」にすりかえる鬼母(笑)
 プライドに凝り固まり、わが道を行く自分への反発から娘が死んだなんてことがバレちゃ困るから。
 新しい時代に、自分の人生を選び取ろうとして遺書も友人に送っていた娘の心中を殺害事件だと言い張り、指にあった”婚約指輪”も外して埋葬。
 でも、TVでこの話をやる時はちゃんと心中って言われてますね。浩が公開を差し止めようとまた周囲に迷惑をかけた映画は結局公開され、心中は有名になったので、TVがそんな有名な話を今更変えるわけがない。うん、これだけはTVに頑張って欲しいです。
 いやー、ホントに迷惑なお姫様もあったもんです。(弟さんなんかも呆れてたみたいですが)
 この本の初版は1998年。流石にお姫様が生きている間は出せなかったのか、そんなことはないですね。だって相当事実を調べた本ですから。
 というわけで、自分をものすごーい美談の主にすることに成功した彼女ですが…
 嵯峨浩と、お姫様の陰謀にも沈黙を貫き、実は溥傑が日本時代に出会った理想の女性はこの人ではないか、と著者が推定する吉岡夫人や娘達と、どちらが「育ちのよい人」かは、この本を読んで頂ければ、おのずとわかるでしょう。
 あと、皇帝一族の逃避行を悪く描いた本の中では、溥儀の姉妹(上から順に数字をつけて「〇格格」と呼ばれる)は生活力がないくせに威張り散らすだけの人に描かれていますが、実際には皆それぞれに役割があり、王家を守っていたらしい、ということも入江さんの著書を読むとわかります。