正しい音楽史のススメ―石井宏著作

 大分前になっちゃいましたが。引っ張り出してUPします。
 石井宏さんといえばモーツァルト関係の著作を読んだっきりですが、近刊のこの『反音楽史』の書評を読んで「ほほう。」ということで。

4103903031反音楽史
石井 宏

誰がヴァイオリンを殺したか 大東亜会議の真実 アジアの解放と独立を目指して PHP新書 ピアニストの名盤―50人のヴィルトゥオーゾを聴く 200CD オーケストラの秘密―大作曲家・名曲のつくり方 ゼロ・ビートの再発見―「平均律」への疑問と「古典音律」をめぐって

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 一言で言えば、音楽史研究における日本と世界の「ドイツかぶれ」を直す本、です。
 済まなかったイタリアよ!これからはもうちょっと虚心坦懐に音楽史を考えるよ!(←乗せられやすいヤツ)
 音楽のみならず、何かの分野の「研究をする」「考える」「知る」とはどういうことなのか、をも考えさせられる一冊。
 音楽はイタリアで生まれたのみならず、現在でこそ「楽聖」として知られているドイツ人作曲家(音楽室に掲げてある肖像画にイタリア人が何人いたでしょうか?)が生きていた時代にも、世を風靡していたのはイタリア人作曲家であり演奏家であった。イタリア人の壁は厚く、実は現在「有名」なドイツ語圏作曲家も、その壁には見事に跳ね返されていた。
 だが、今の「音楽史」はドイツ中心に作り上げられた音楽史観であり、あたかも、音楽はドイツで生まれ、常にドイツ人が音楽界をリードし、ドイツの都市が音楽の中心であったかのように宣伝している。
 冒頭に挙げられたE.J.デンツの、
「ドイツ人の器楽的な世界は、イタリア・オペラという梯子を昇ることによって初めて到達し得たものである。しかし新興ドイツは、一旦その梯子を昇ったあとで、それを蹴り倒し、以後は口を拭ってイタリアの梯子などは最初から存在しなかったようなふりをしているのである。」
という言葉は見事です。(今同じ状況にある分野は他にも沢山あるでしょうが…)
 よく、「今は有名な芸術家も、生前は理解されず困窮の内に死んだ」という話を聞きます。真の芸術の価値は理解されるのに時間がかかるのだ、という、わかったような実はよくわからない理論です。でも今我々が知っている「偉大な」作曲家や画家は、みんな「当時は理解されなかった」ということが逆に「偉大である証拠」みたいに思わされるのが現代の教育ですよね。(ゲージュツって、どうして、わかんないものはわかんないと言っちゃいけない雰囲気があるんでしょうねェ)
 しかし研究というのは、そうした、周囲の無知をあげつらうための”美談”とはあくまでも別に行なわれなければならないのだなあ、と痛感しました。
「よく、今に私の時代が来る!と言うが、それは逆に言えば、今は私の時代ではない!ということである。」(吉松隆『世紀末音楽ノオト』)
 後世に理解されるも優れた作曲家だと言われるもそれは結果論だし、発掘されて大人気になる人もいれば、同じだけ、かつて一世を風靡して既に今は名も残っていない人もいるわけです。何故そういうことになるか、というのが音楽史研究であって、初めから何かを中心にするためにそれ以前の事実を書き換えることではないはずですね。
 現在の所謂クラシック音楽(器楽、声楽共に)の研究がいつのまにかドイツありきになっているのは、確かに、結果から原因を推定して誤っている如くだなあとこの本を読むとわかります。
 「今」いいと言われている作曲家が昔人気がなかったのは、「理解されなかった」から?では「理解する」って何?ですよね。人気がないものは人気がないわけです。では、それが何故なのか、人気があったのは誰か、主流であったのは誰か。別に、主流であるものをすぐれたものだと思えというのではありません。何故素直に研究しないのか、ということです。(同時に、今人気のあるドイツ人作曲家の「生前の悲劇」を、「イタリアの壁」という視点で見直せば、理解されるだのされないだのという、本来芸術とは全く関係ない次元での理論は必要なく、より意義のある研究が始められるってことかも…)
 特に、ドイツ好き国民の日本人(国そのものというよりドイツの教条主義というか何でも何かで括らないと理解できなかったり(すぐ「なんとか派」ってつけるアレは、ドイツ独特なんですって、知らなかった)苦悩を通じてしか歓喜に到達できないと信じたりすることが大好き)には、音楽史をはじめ、ドイツかぶれ(ドイツを好きなのは別に悪いことじゃないけどね)の分野って一杯あるんだろうなぁ、なんてことも考えたりします。
 まあ、ドイツの精神性とか研究メソッドだから悪いというのじゃなくて、それはそれでいい、役立つところも他の分野でも沢山あったのは事実です。
 けれど、歴史とはいかに「作る」=「改竄する」ことができるか、という実例が音楽史です。
 あの小学校の音楽室って、本当に何だったんでしょうねェ。

 でも、研究って、音楽のみならずそういうものかもしれません。近い例でいえばやはり歴史。結果論なしの研究なんて極端なことをいえばありえないのかもしれない。
 あるがままの場所に身を置いて考える、ということの何という難しさ。

 そして、「口を拭って、初めから自分の手柄のようなふりをする」という点でも、音楽のみならず色々あるんでしょうね。
 敬意を払うことほど忘れがち。
 この、敬意を示す、という行為も、「研究」の一つの側面なのかもしれません。
 自分の立場を、それまでの歴史の延長上に置いてみること。つまり、正確な歴史を把握し、その先に自分がいるのだ、今があるのだ、ときちんと自覚し、あるいは他者にも示していくこと。

ヒトラーはドイツの歴史を相対化しなかった人ですね。ドイツ民族の傷を隠蔽してつくった歴史を絶対化して、反動的に誇大妄想に走ったのです。歴史を相対化しない人は、はた迷惑です。」(岸田秀
 という、これもこの本の冒頭に掲げられた言葉は、前記の音楽史にあてはまるのは勿論、今挙げた「歴史の一部に自分を置いてみる」というあらゆる分野における姿勢に通じるものではないでしょうか。
 研究するということはある分野の中の対象一つ一つを全体の流れの中で相対化することであって(更にそれを他者に示せば、自分の研究の相対化にもなる)、何か中心に仕立て上げることは、相対化の対極、つまるところは「絶対化」、即ち、研究とはいえないのではないでしょうか。

 絶対化することは楽しい。そこにとどまっていればいいから。
 見回してみると、世の中には、相対化されていない歴史、相対化されていない―――人間も多いのかもしれません。
 大人になる、ということは、自分を相対化できることではないかな、と、二十歳すぎてやっと気づいたのは随分遅いことですが、実際、自分と仲良くなれたのもそれぐらいでしたね〜。ま、私のことはどうでもいいとして、所謂「親離れ」「子離れ」も、自分と相手の相対化によってやっとできること。夫婦関係も友情も。

愛し合うとは、二人が見つめ合うことではなく、二人が同じ一つのものを見つめること。(サン・テグジュペリ
 何か話がずれましたが、この本におけるように、自然だと信じているものが加工されていたことを知り、相対化されていないものの恐ろしさを知ることは何かを知ることの第一歩かもしれません。…大抵は、加工されたものにどっぷり浸かった後ですが、いつだって遅くはないでしょう。

4059020303帝王から音楽マフィアまで
石井 宏

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 「〜から〜まで」とは言っても、帝王と音楽マフィアはコンビであり、音楽マフィアがいるから帝王なんですが。
 という内容の本です。終わり。
 あ?駄目?
 もともと芸能界というのは正常な神経の人間ではついていけない所です。人を正常ではない神経にさせてお金を取る所だからです。
 クラシック音楽に金を払うのがバカらしくなる本(笑)
 まあワタシだって、ファンの方も異常だって思う時はありますね。やる方もワルだし見る方もバカ。
 何万もするオペラのチケットを買ってから、ストーリーを知るためにDVDを買う「クラシックファン」には呆れたことがあります(欲しいDVDが売り切れで、店員に訊いたら「今度メト(ロポリタン歌劇場)が来ますからねえ」。あらすじも知らない人がただチケットを買う、それも万単位の!ってどうでしょう???安くて質のいい公演だって探せばあるのにねェ。こういう、典型的な「権威に弱い人」が、特にメトがどうというんじゃなく、招く側も旦那気取り、やる側はやる側で無知な日本人から金を毟り取れるってんで話に乗る、そういう現状を支えているのですね。)
 いかに異常な世界か。魑魅魍魎大好きな方は是非ご一読下さい。

4103903023誰がヴァイオリンを殺したか
石井 宏
新潮社 2002-03

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 という本をヴァイオリンのお稽古の日に読みました(笑)
 とにかくものすご〜く、ヴァイオリン好き、とか、やっている、とかいう人には特に面白い本(…残念ながら、クラシックマッチロケ、の方にはちと難しい)。
 色々勉強になったのですが、一つだけどうしても挙げておきたいのは、
 「ストラディヴァリウスなどの名器=いい音が出る、ではない」。
 色々とこれも常識を覆してくれる本です。