加藤徹『西太后』(かたい編1)

西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書)
西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書)加藤 徹

中央公論新社 2005-09
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 昨日届いた本を今日読んでいたら、そういや今朝の新聞は軒並み「女帝容認」を一面で報じてました。すごい偶然です。ワタクシ、こういう偶然すごく多いのであります。余計楽しいってもんです。
 さて、西太后です。
 彼女についての各人の漠然としたイメージは死ぬほどあるでしょうから繰り返しませんが、この本はマジで素晴らしい。
 彼女の人生を、整理がようやく(死後たった100年!)進みかけている膨大な資料によって、清朝末期の歴史の中に正確に位置付けて読み解くことで、従来の悪女像を覆し、同時に、現代中国や中国人がすごくよくわかるようになっているという、グッジョブ!な本。
 正に、歴史学とは現代に生かしてこそのものだ、ということと、歴史学の醍醐味を味わわせてくれる良書ですね。明確だし、あまり清朝に詳しくない人にも、清朝そのものがどういう時代だったのかからよくわかるようにもなっている。以前レビューした『日露戦争史』といい、最近は、再びロシア関係、中国関係にかなりエキサイティングな歴史研究の動きが盛り上がりそうで期待ですね。
 実は、この本のレビューについては、上の画像なりリンクなりをクリックしてAmazon.jpレビューをお読み頂ければ充分なんです。既にお書きになられているお三方のレビューが完璧でございます。
 「西太后マニア」(色んなもんのマニアやってるなー、俺)のワタクシも、付け加えることなんぞないぐらいでございます。
 それでもあえてやるのがディープな「興味と妄想」(笑)果たして本のレビューに留まるのか否やは知らず、いくつかのポイントに絞ってみましょう。
 ミーハーに流れそうな話題だけは次の記事に回すことにして、とりあえずいってみよう!
 (1)現状認識を見直そう
 ・今、「中国」「中国人」とは何か、何をしたいのか
 著者が「はじめに」や、本文中でも繰り返し述べている通り、実は我々の抱く「現代中国」や「中国」そのもの、あるいは「中国史」というものは、非常におおざっぱな一方で偏っているということを忘れてはなりません。
 中国史を学んでみて(大学でだけだけど)思うのは、中国とは「いやー、秦の始皇帝がいなかったら、中国って現代まで分裂したまんまだった(つまり「中華」という国はなかった)かもなー」と思うぐらい、でかくて、当然地方色豊かな土地であります。で、この本で目ウロコだったのは、もうはっきりと、
「中国人が、”中国という国””中国人という民族”を意識したのは、清朝末期の外国の侵略によってである。中国四千年などというが、本当の意味での中国は、たかだか200年にすぎない。」
と言い切っちゃってるところ。
 これだけだと乱暴に思えます(勿論中国人は怒るだろ)。が、考えてみれば、その四千年というのは、王朝の遺産を次から次へと受け渡しつつ国として続いてきたものの、深刻に強烈に、「では、外の世界にとって中国とは何か」を考える機会はなかった。そういう意味では、アヘン戦争はやっと、中国にとっての黒船、ペリーだった(この、同じショックを受けた中国と日本のその後の大きな違いは、後に西太后と甥・光緒帝の対立の原因として考察される)。今の中国人が実際に「中国」と考え、「取り戻すべき中国の威信」と考えているものは、「清末以前」(本書より)である―――
 実際、本書によれば、現代中国の国家戦略は、領土確定問題(S諸島)などでもわかるように、「世界における中国の存在感を、西太后以前に戻すこと」なのだそうです。それだけ、清国とは、中国にとっては直前の王朝であり、かつ、正しく当時世界一の超大国(その当時の世界人口の3人に1人が清国人!!あ、今と変わんないか)だったのです(そこへ戻すことが現代で可能かどうかという問題がまずあるんだけど…)。
 …いかがでしょう。完璧に正しいかはともかく、現代中国の良くも悪くも盛り上がりっぷりからしても、何となくわかりやすいのではないでしょうか。
 日本だって、どこの時点の日本を「あるべき日本」と考えているか、と考えてみると、まさか2000年ぐらいの歴史全部、とはいかないでしょう。人間の考えられることって、せいぜい100年200年。そういえば最近の日本はヘンに卑屈な部分とヘンに明治賛美が始まっているような気がしますが、これも、中国人にとって実際の「威信」とはあの最大版図を築いた清朝盛期だというのと、あんまり変わりありません。江戸時代だとしたって、2000年がやっと江戸開府400年記念。
 ・歴史認識のずれの原因
 日本人の「中国史」は、著者も指摘するように、古代とかせいぜい唐とかばっかり。さすが、自分の国の現代史も学べないお国柄です。他人の国にまでロマンありきですか。私も、大学に入って、古代史をやる人間のミーハーさに呆れ果てたからこそ、一気に時代を1600年ほど飛んで、清朝末期を専門に選びました。卒論のテーマは、西太后頤和園修復工事への海軍費流用問題でした。これも後に述べます。著者も、縄文時代弥生時代しか知らない外国人が日本人を理解できないのと、今の日本人が中国を理解できないのは同じことである、と述べています。中国の反日(後述)も問題だけど、未だに日本人にとっての中国がいわゆる中国史ロマンじゃあ、わかりあえないでしょ。なーんか日本人も、外国人が日本人に対してそうするように、古代ロマンのイメージを中国と中国人に求めすぎている気がする。勿論、現代中国にも歴史は綿々と受け継がれていますが、当人としてはやっぱり嫌なんじゃないかと思います。そう考えると、立脚点を直近の清朝にもってきても、むしろ現代を理解しやすい気がしますね。
 一方では、やはり中国の歴史教育というのは反日教育がすごい。もっと根本的にいうと、本書によれば、中国の歴史教育は人物を必ず善玉と悪玉に分けて教え、その善玉と悪玉を決めるのは共産党。当然、自由な歴史研究は不可能。これは私も学生時代に中国の論文を読んでいて、余りにも歴史研究が「いい」「悪い」の話になっていて辟易しました。特に、以前にも書きましたが、日清戦争なんてその最たるものです。まともじゃない。
 いわゆる歴史教育の問題も同じで、古代から学ぶ一方で、別に現代史を、今現在と照らし合わせて正しく評価していく教育、学習が日中両国にあればいいのになあ。まあ、そうした本当の歴史学がやっと出てきたのが、この本だったり、『日露戦争史』だったりするんでしょう。やっぱり、後述のように、研究を始めるには最低100年はかかるんですね。
 
 (2)西太后時代とは何か
 この、清朝末期という数十年間に、20世紀激動の中国のプロトタイプがすべてあった、つまり、西太后の時代はその後の100年の「小規模実験工場(パイロット・プラント)」であった、というのが著者の考えです。
 西太后というと、「清朝を滅ぼした」「滅亡を早めた」というイメージがありますが、彼女は、「あったものを壊した」というよりは、
「壊れ行く超大国の中心にあって、期せずしてその後の時代に受け継がれる様々な政治や国のあり方の実験の立役者となった」
と捉えられているわけです。だからサブタイトルも「大清帝国最後の光芒」なのでしょう。これが本書のキモです。
 何故この考え方が重要かというと、本書で「選秀女」(後宮のお后選び)のシステムを大きな例として説明されているように、清朝末期というのは、今よりもずっと中国社会制度の頂点にあった時代だからです。官僚制度も後宮の制度も何もかも、もう完璧に作り上げられていた。元々中国というのは、システムがものすごく立派という意味での「官僚の国」(日本の場合、トップよりも官僚が実際に国を動かしているという意味での官僚大国)。そうした中で、彼女は、何よりも国のためを第一にシステム化された妃選びで宮中に召され、システムに従う中で、激動に直面した大きな時期のキーマン(ガール)だったわけです。この、システムのガチガチっぷりは、本書で具体的に説明されていて面白かったです。
 そして、システム構築が完璧であると同時に、実はその中で蠢く人間関係は日本よりもずっとウェット。結局は「まず人間関係ありき」で、思想対立などは後からくっつくものだという政争の性質(本書より)も考えると、中国人というものが浮かび上がってきます。またこの、伝統的にきわめて人間的な中国政治を、実は最もよく体現したのが、女性の為政者である西太后だったことも、本書は明らかにしています。
 「現代中国の実験場」という例を挙げるときりがないのですが、例えば、才能ある重要人物を取り立てたり失脚させたりを繰り返す(しまいには、それをやられたある人物が「失脚慣れ」した、という本書の書き方はうまい)というのは、後の毛沢東とトウ(字化けするのでカタカナ)小平。傍から見たらハラハラするような馴れ合いでも、やんなきゃいけないのが中国の人事。義和団事件では集団ヒステリーを利用し、自分自身を政府や王朝からさえも超越した存在にしようとしたのは、言うまでもなく文革毛沢東。排外運動を官憲が黙認する…アラ?つい最近…。
 また、このあたりは、女傑といえば男勝り、とは限らない、という彼女の人間性の考察にも関わってきます。
 こうした”先取り”が出現する一方で、中国の老獪な外交も勿論しっかり出てきます。「猛攻のポーズの中に隠れた講和のサインを込め」た義和団事件(清軍は義和団に協力するふりをしつつ、その限界を見越して外国人虐殺には消極的だった)、エトセトラ、エトセトラ…。
 海軍費の流用もそう。南洋海軍・北洋海軍合わせて年400万両という予算は、やれどこどこの災害救済だなんだと流用されて、最終的にはすごく減っていました。しかし、まとまったお金が動く時にはそこに他の需要が群がるというのは中国の会計では当然のこと、と、指導教授に教わりました。流用というと悪事というイメージがありますが、むしろ「方便」とみなされていたそうです(このへんいかにも中国)。
 従来の、彼女と対立した洋務運動での改革派が書き残した流用額は荒唐無稽ですが(3000万両って…日清戦争前の海軍予算を合計したってそんなにないよ…)、流用件数は確かな記録を見ても相当な数です。従来の日本の研究でも現代中国の研究でもこの海軍費流用問題はイコール西太后の典型的悪事の一つイコール日清戦争の敗因、とされてきました。わかりやすいですからね。
 しかし、ワタクシがその昔、海軍費の流用の内訳を調査し、頤和園の工事費用と照合し、同時に北洋海軍の建艦費の出所を全て調査した結果、工事費への流用は他の流用に比べれば海軍を揺るがすほどのものでもなく、また、建艦費はほとんどが予算外の臨時支出で賄われておりました。従って、「流用した分があれば何隻船が買えた」という敗因の追究と、所謂西太后の流用とは全く別問題であり、海軍費の不足は北洋海軍(でもこれも李鴻章の私兵)の老朽化の原因の一つに過ぎず、またこの北洋海軍の敗北も敗戦の原因の一つに過ぎない―――というのが、拙い修論の結論でありました。
 この諸外国にモマれた時代に、いかに中国のパターンがわかりやすく沢山出てくるか、と驚きます。中国知るなら近代史。
 かたい編2に続く。