読め、書け、支配せよ〜加藤徹『西太后』(やわらか編5)

 もうやめろ。ハイ。これで終わりです。怒らないで〜。

 今回の加藤版『西太后』には、彼女は、
「あの時代の女性には珍しく公文書は読めたが、書くと誤字だらけだった」
とあります(これも具体例が挙げられている)。
 これは犬塚様へのコメントで先に書いたのですが、この識字という点でも、彼女については、これまでは、いかにも俗説のみが罷り通ってきた彼女の評価らしく、
「大変な才女だった」
「実は彼女も文盲だった」
の両極端の説しかなかったのです。
 つまりは、こんなことでさえ、真実は語られなかったのですね。
 結果的に言えば、彼女は中流官僚の家に生まれ、まあ同じ官僚の娘である東太后とは違い、個人的にものを読むのが好きだったのか、字は読めたし、公文書のスタイルにも通じていた。
 宮中に入ってからも読書が好きで、特に歴史書四書五経をよく読んだ。
 しかし、やはり男ではないので、ものを書く訓練はしていなかった(文章にせよ詩にせよ、封建時代に女性が筆を執る必要は認められていなかったので当然)。
 従って、字は知っているが、用法をよく間違った。
 …ああ、やっと普通のセンに落ち着きましたな。
 ま、読書が好きなのに実際書いたら用字用法を間違うというのは問題ですが(笑)意味は通ったんだからいいんでしょう。

 さて、当時の公文書というのは。
 「清朝末期の公文書は読みにくい」というのことを、もしかしたらこの時代を卒論にしようかしらと考えている学部生後半ぐらいになると、先生や先輩から漏れ聞くようになります。もう文書のスタイルも爛熟していたと言いますが、決まりごとが多く、煩雑なもので、前にも書きましたが、ルールと、口語交じりの文語です。
 ただ、そのスタイルさえ理解すれば、どういう種類の文書でどこに何が書いてあり誰がどこにサインして誰宛てなのか、というのはわかります。
 筆者の手元に、山腰敏寛編『清末民初文書読解辞典』(汲古書院)という本があります。
 辞典と言いましても152ページ、しかし!
 非常にコンパクトながら便利な本でございます。
 語彙4900余、これで公文書に出てくる用語(言い回しが公文書独特のものが多いので読むのに苦労するのです)はカヴァーできるし、付録(官位・爵位・量衡・服飾規定・文例など)も充実してまして。
 修論レベルで清朝の史料を扱う人には必携でございます。(直接出版社へお申し込みを)
 私が当時の公文書を読んでいて非常に印象に残ったのは、対象となる時代が西太后が政権を握っていた時代のものなので、公文書でも宛名はまず皇太后、次いで皇帝となっていたこと。
 文書の最後が必ず、
  
 皇太后 
  皇上聖鑒謹
  奏

 なのです。
 「皇太后」が「皇上」=皇帝(光緒帝)よりも一字上がっています。
 現在でも、手紙で、人の名前が行の最後に場合は、途中で切れないよう、行を改めます。もちろん、やんごとなきお方のお名前や呼び方でも同じです(大河でも、重衡が無理矢理手紙を書かされた時、確か「主上」(だったかな。表現は不確か)は行をあらためて、或いは更に一字上げて書いていたはず)。
 この場合は、形式上(忠よりも孝が上の中国では、皇帝よりもその親はもっとエライ)のことなのか、それとも彼女が実権を握っていたからなのか定かではありませんが、どちらにせよ、この「政治に関与する皇太后」が存在しなければありえないスタイルでしょう。通常、皇太后は皇后であった間もその後も政治とは無関係のはずですから。この「異常」な状況が約40年続いたわけです。このあたりに、彼女は実際に長い間国のトップにあったのだと実感しました。

 読み書きと言えば。
 非常に賢く真面目な光緒帝は、幽閉されてからも1日1時間必ず英語を勉強し、ほどなくマスターしたそうです。
 西太后も「だったら私だって」と勉強を始めて…「2時間で頭が痛くなってやめた」(本書より)そうです。
 2時間もったんだ…(笑)

 最後に、北京について。
 歴史認識のずれのところで書きましたが、日本人が抱く「中国」のイメージは、もう現代中国とはかけ離れています。これは哀しいですが事実です。
 有名な近未来っぽい(但し、中国は沿岸部と内陸部の差が激しい)上海などは言うまでもなく、もはや「古代中国」を探すのは無理です。(すんごい田舎に行ったらあるかもしれないけど、そういうところに「ロマンを求める観光客」は行かない。)
 北京では、胡同(フートン=路地。いわゆる長屋のような住宅街)も、四合院(中庭を持つ、中国の伝統的建築様式の家)も、どんどこ鉄球ぶん回して壊されてました。ちょうどオリンピック誘致を始めた頃で、
「ああ、きっと日本の30年前の過ちはこんなだったんだろう…」
と思いました。
 かつて、東京の「潮見」とつく坂からは必ず海が、「富士見」と名のつく坂からは必ず富士山が見えました。しかし、今は地名だけが空しく残り、やがてそうした地名さえ、「実情に合わない」という理由で消えて行きます。
 北京も同じです。かつての帝都北京は見る影もないでしょう。
 そもそも、北京は、空港からの高速道路を通す時に、紫禁城の外城の城壁(中国の町は城塞都市であり、元々は町全体を城壁が囲んでいた、その城壁)をぶっ壊してますから。しかもこの城壁、元の大都時代のもの(!)だったのにです。
 一旦やりだすとパワーは日本人よりすごいですから、徹底して変わっているでしょうね、今は。
 勝手なイメージを持って出かけると驚くよ、ということは、書いておきます。
 おしまい。