チョコレート工場の例の新訳

t_masamune2006-08-20

チョコレート工場の秘密    ロアルド・ダールコレクション 2
 あれだけブッておいて、読んだ感想を書かないのもなんなので(^^;)
 …新訳。
 うーん。
 まあ、好きな人は好きでしょう。趣味の問題。
 しかし私には、旧訳を批判して作られたこの新訳の方が、却って「スタンス」がよくわからなかった。
 まず、旧訳を知る人に最も批判されているのが、あとがき。ブチまくり。勿論、旧訳の田村隆一氏批判もばっちり。
 必ず何か余計なことを言わないと気が済まない人っていますわね。そのパターン。
 えー、柳瀬さんはとても好きだ。『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』には大いに頷いた。でも。早い話、この新訳は、どうしてこういう鼻につくものにしないと収まらない人なのかなあということ。
 前にも書いたが、語るべき言葉を多く持っている人ほど陥りやすいことだ。作品とは関係ないだろうと言われることはわかっているが。
 この人は、本当に自分のが一番で、他を認める余地なさそう。だからアラがわかると余計みっともないし。
 アラのない、完璧な翻訳なんてありえないのだし、何事にも完璧はありえない。だから常に人は「世に問う」という姿勢を取るのだが。
 最初に、今最も世上の批判を集めている、人名の思い切った意訳から言えばわかりやすいだろう。
 「訳しすぎ」で、後でウォンカ(ワンカ)氏の嫌味が気の抜けたものになってしまったところがある。
 そして、この、「訳しすぎている」がために、却って、何故そういう名前に訳したのか、あとがきで説明を必要としている。説明が必要になるような意訳は、意訳だろうか?そのままにしておいたって十分あの子供たちのひどさは伝わるのに。
 文学者をしていて、翻訳が好きで、一家言あるのは十分わかった。だが、この、ご親切な解説たっぷりのあとがきには、「自分しかこの物語の原文の本当の面白さを理解していない」という自慢が見え見えで不愉快(少なくとも、旧訳者はわ理解していなかったとしている)。原文の面白さを広め、実際に原文に触れて欲しいのはわかるが、何もこんな「自分はこんな風に考えた!すごいだろ!」なあとがきでなくても。
 児童書というのは、入口であり、「その先」が何となく自分で探していけるもの。でも本当に、この新訳は、まるで想像力の広がらない四方固めの訳文だ。「この1冊!」「俺の訳!」で完結させようとだけしている。本文からあとがきに至るまで、1冊の「自己主張の書」だ。旧版を絶版にしてまで世に出すよりは、学会誌にでも発表して欲しかった。「児童書の新訳」と位置づけて出して欲しくなかった。これはあくまで「柳瀬訳のダール本の1つ」である。(旧版の新版ではなく、あくまで「ロアルド・ダールコレクション」の1冊、というのは、「だって子供向けだなんて一言も言ってないもん」といううまい逃げだ。だが、旧版を絶版にしてしまった以上、出版社が、今後この訳以外は認めないと宣言しているということだから、置き換えてしまったことに変わりはない。)
 そして、旧訳批判はそれ自体はまだしも、一方的になっているのもいただけない。
 新しい仕事を前任者への不満、批判から始めること自体は、方法の1つであって問題はない。また、相手が故人=反論ができない状態であるということも、学問の世界ならよくあることだ。しかし今回の、批判した相手=旧訳が絶版でもう読めない、というアドバンテージは、相手が故人だという問題とは別だ。相手が故人であっても、読者が作品を比較できればアンフェアではないからだ。だが現状では、映画になって原作が売れて、さてこの本のあとがきを読んだら、田村訳がただの「間違った訳」「ふさわしくない訳」だと思われたままになってしまう。これはひどすぎる。というより、新訳本であんな風に批判されたら、会社としても旧版を出し続けにくいだろう。絶版になるとわかっていてああしたひどい批判をしたのか?それともまさかあの批判のせいで、旧版を絶版にせざるをえなかったのか?
 せめて旧訳が絶版でさえなければ、このあとがきは通常の先行研究批判と受け取ることもできたのだが。
 それにしても、Amazonカスタマーレビューにもあったように、「(珍しい人名の意味を)はたして訳者がわかっていたのかどうか…」はひどい。柳瀬氏は、田村さんの訳業を「はたしてわかっていたのかどうか…」。
 田村さんといえば、イギリス文学の翻訳やミステリ翻訳で、充分に色々な文章に接してきた人ですよ(早川書房時代の話は、都筑道夫さんのエッセイに詳しい)。英語のニュアンスの訳し方において、この人をつかまえて一席ブツ方こそ僭越。この作品でも、名前の意味は、後の方のワンカの台詞を読めば、田村さんが充分理解していたことはわかる(このことが読者にはわからないと思っているとしたら、それこそ柳瀬氏は英語を学んだ年齢の読者をナメているにもほどがある)。事蹟の点でも理解力読解力の点でも、田村さんは大先輩なのだが、本当に上っ面だけ見て、これだけ(丁度映画にもなり)影響力の大きい状況で一方的に…というのは人間的にどうかと。
 そして全体には、「子供向けぶりまくっているが子供に不親切、かといって大人にもハンパ」という訳文。
 まさしく「アラ探し」だ、と言われかねないが、砕けた地の文で子供向けっぽくしているかと思えば、台詞には妙に硬い言い回しがある(「もう」で済むところを、わざわざ「もはや」と言ったり、子供向けなのにじいちゃんの台詞で「臍を噛む」とか)。本当に微妙だが、語調の強さのレベルや、言い切りのレベルの設定もばらついていて何となく不統一な印象を受ける。
 元々が子供向けなのか大人向けなのかわからない話だが、それでも一応「割り切る」のも訳者の、翻訳の前段階での仕事だ。旧訳は、子供向けに書かれた原典を完全に子供向けのことばづかいで訳しており、読む方もそのつもりで読む。そして、実はこういう話を書いている作家のブラック風味のある子供向けだ、ということは解説でもしておけばいいし、知らなくたって物語のよさが伝われば良い。だがこの新訳は、どうとも言えない、本当にハンパな印象を受ける。
 子供の性格や英語のニュアンスを出したいのだろうが、子供の言葉遣いが乱暴だし、地の文も一部意味のわからない汚い表現がある。
 翻訳は、いつでも試論に過ぎない(のだが、柳瀬氏は自分のがベストだと思っているのだろうか)。どちらがいいも悪いもない。だが、選択の余地は必要だ、ということを、今回のようなことがあると痛感する。評論社には、旧訳の再版を望みたい。