ボスコムでオレンジから種を出す(読書日記)

 Ruby版ホームズ、『ホームズの冒険Ⅰ』、通勤3往復プラス家でぼそぼそかかって、残りの「ボスコム谷の惨劇」、「オレンジの種五つ」まで読了。まだ「唇の捩れた男」が残ってる。(このままいったら結局1冊何日ペースになるんだ?)
 前回書くのを忘れたが、各話の扉に(この道の「権威」な夫妻による)その話の短い解説がついていて、これが堂々ネタバレの上での突っ込みが多い。まあ、原文に挑戦しようという人が邦訳を読んだことがないということはまず考えられないから、仕方ないのだが…
 しかし、原文を読むと、
「ツッコむなんて野暮、野暮」
と、邦訳を読むよりもっと強く思えてくるのも事実。だって、ホームズとワトスンが英語でおしゃべりしているんだもの。なかなか日本語にはできないニュアンスが、頭の中で日本語になるのではなく、英語のまま伝わってくる時に初めて感じられることがこれほど沢山あるものかと驚き、感動する。だから、ホームズ物語ファンが、このシリーズを何故大好きなのか、何を好きなのか、が、あらためてよくわかる。 
 この、ホームズがブラフをかましまくり(←これが、ツッコみ所満載な所以(笑))、時にはマジで頑張り、時にはぼやき、その彼を支えられるのはワトスンしかいないという、「世界」が好きなのだ。
 やや唐突ながら、私はワトスンさんファンである。
 出しゃばらなくて人の話を聴けて(つまり自分と逆)、いつも大人っぽくて落ち着いているから、信頼できる人(とことん逆)。この人を過小評価したり笑い者にするのは許さん!!
 このシリーズの主人公は2人であり、ワトスンになってホームズと心躍る冒険をしたいか、それともホームズになってワトスンのような心の友((c)ジャイアン)を持ちたいかは、正に究極の選択である。敢えて選ぶなら後者だが、肝心の自分がとてもホームズになってもやってけない(笑)。だからどちらも断念している。
 だからかもしれないが、原文で読んでやはり一番思うところあるのは、物語の多くを占める、2人の会話だ。
 原文とは、
「これっきり、ホントにそのまんまのナマ!」
であるので、想像力を働かせる楽しみがあると同時に、どうしても作り手としての目でも細かく見てしまう。そうすると、この2人のやりとりというものが、ことばづかいといいリズムといい、実に生き生きとしていることがわかる。概ね、あのグラナダTV版(傑作である)におけるホームズ役、故ジェレミー・ブレットの喋り方でホームズのセリフを再現して読んでいるが(あのドラマの人気は日本語吹替の良さもあって、DVDで原語を聴くと驚く人も多いと思う)、あのイントネーション、リズムが原文にかなりあてはまる。ということはジェレミーは原文に描かれたホームズらしい喋り方をしているのかもしれないし、また、元の文も、ホームズの性格がことばづかいで非常によく表現されている、ということである。そして同様に、このホームズの長台詞(これがねえ〜、ワトスンに向かって喋るのがホント楽しそうなのよ(笑))に、時々ワトスンが挟む、
「ぼくにはまだよくわからないんだけど」
「明々白々のように思えるけどねえ」
「一体全体?」
とかいう答えが何ともよろしい。語りの部分でも割と俗っぽくてとぼけたところがあるのもいい(笑)(となると、作者のいいところだけ受け継いだのか?(笑))。
 優れた聴き手あってのホームズのかましまくりであり、また、ワトスンだからこそホームズは何でも語れる、だからこそ我々にもこの物語が与えられているのだ、と思う。ということは、ワトスンがよく「読者代表としていい仕事をしている」というのは、これもよく出てくる「読者の愚かさを代表している」のではなく、「うまいことホームズに喋らせている」という意味ではないだろうか。
 ホームズが、「君はぼくの反射鏡のようなものだ」とか言ってたことがあるのは言いすぎやんかと思うが。大体、あのスカしまくりで(結構子供っぽい)頭のいいホームズが一緒にいてイライラしないんだから、ワトスンがお馬鹿なわけがないのである。頭の良さには色々な種類があるということだ。うーんホームズ、親友にはもっと優しくしてあげなよう(笑)(ま、口が悪いだけで本当は誰より信頼しているのは、端々からわかるけどね)
 かつ、地の文=ワトスンの一人称、つまり文体そのものも、エンタテインメントとして実によくできたものだ。気を持たせる。いいところで台詞が入る。いいところで場面が転換する。気の利いた台詞がいいところで利く。メリハリがある。そもそも、普通に英語が読める人にならば苦ではない、文章自体はとても平易なもの(この、平易であるというのも大事)。もっと凝った文体なら、「えいこくぶんがく」には沢山あるけれど、ミステリが文学かという議論とは別に、単純に、読みやすい。必要なところに意味のルビさえ振ってあれば、こうして日本人だって理解できるんだから(笑)
 つまりは、当たり前だが、ドイルという人は非常に上手い「物書き」だということがわかる。特に短編では、文章として気の抜けたところがない。
 発想も大事だが、人に読ませる以上、結局は文章力である。この文章に、当時の『ストランド』を購読していた人がどのように楽しみにページをめくったか、読み終わって「あー面白かった」と椅子にひっくり返ったか、自分もとても楽しく想像できる。
 このシリーズに出会った少年少女は、自分ではホームズの鮮やかな推理に魅せられたと思うのかもしれないが(勿論それでもいいが)、まず、「ページをめくる楽しさ」を知ったということには、当たり前すぎて気づきにくいか、私のように年食ってから気づくのだろう。ちなみに私は、ここまでブッておいて、実は小学生の時はホームズものは「暗そう」と思ってて、クリスティー一辺倒だった(笑)
 面白けりゃいいんである。ということを、あらためて実感した。日付があちこち間違ってよーが、「そんなんありかー!」な真相だろうが(そういう意味では発想したもん勝ちである)、「犯人逃がすなやー!」だろうが、いいのである(笑)
 それにしたって、ホームズはワトスンさんに対してmy dear fellowという呼び方ばっかりするのだが、こんなのどーやって日本語にしろっていうんでしょうかねえ。罪だわ。特に最近の若い人には、男同士の純粋な友情とか信頼とかって、正面から言ってもわからないでしょうし(水野雅士さんだったかが、日本人のホームズ物語好きの理由を、明治時代へのノスタルジアと結びつけてうまく説明しているのだが、こうした男の友情というのも、明治から戦前にかけての文学にみられるものに近いのかもしれない)。
 My dear、My boy、My dear Watsonに至ってはもう…(笑)。My dear Watsonに関しては、大抵は「親愛なるワトスン君」(例のあの、「初歩的なことだよ」の後とか)と、ちょっとホームズがスカした言い方をしている感じで訳されているが、そういうのともちょっと違うような…ある意味、こうした呼び方には、甘えにも近いものを感じる。それとも、当時の親友同士は普通にこういう呼び方をしていたのかもわからないが。まあ、英語わかんない人間の思い込みだと思って頂いてもよし。
 内容の話もしておけば、「オレンジの種五つ」で被害者はウォータールー橋から落ちて死ぬのだが、扉の解説によれば当時この橋は売春婦のたむろする場所だったそうだ。かつては、東端のホワイト・チャペル地区(言うまでもなく、切り裂きジャックの跳梁した地域。ロンドンの地勢は東京とほぼ同じで、東京をやや縮小してロンドンに当てはめると、港区などハイソなあたりはロンドンでも高級住宅街だし、東端は(以下略))同様、「ロンドン」のどんづまりだったのだろうか。2004年のロンドンでは偶然2日続けてウォータールー(勿論、「ワーテルロー」からついた地名である)駅界隈を通ったのだが、今はこのあたりはすっかり明るく近代的だ。ユーロスターの発着駅としてのウォータールー駅は勿論未来っぽい駅だし、BAロンドン・アイ(観覧車)は目の前だし(高い所は苦手なので乗らなかったが)、向かいのサウスバンクは再開発が進み、北岸の市街とは全く違うガラス張りの建物がボンボコ建つ、今ロンドンで最もナウ(死語)なエリア。カーの描いたロンドン橋も、何やら普通の橋になっていたし、時代は変わるのだなあ(ウェストミンスター橋周辺は正にイメージ通りのロンドンだけどね)。