吉田健一『私の古生物誌―未知の世界』(ちくま文庫)

 吉田さんにしちゃ確かに異色。でも実は古生物好きなんでしょうね。ネッシー、巨人、雪男、海の化け物といった「幻の生き物」や、シーラカンスやマンモスなど実在の動物までエトセトラ、資料を基に色々考察しています。この、読んでる資料がみんな外国語。凄い。で、全体に、「幻の生き物」も「本当にいる」という方向で…いいのかな?まあ、「幻の生き物」も、まだまだいると思った方が楽しいし、証拠らしきものがなくはないしね。まだまだ、地球上で人間が入っていない場所なんて沢山ありそうだし。私も古生物大好きなんで、こういう古生物についてあれこれ書いてある本は好きです。著者が元々つけようと思っていた序文では、人間だけが他の生き物とは別だという考えが馬鹿らしいということを書きたかったのだそうだし、虚心坦懐に、色々と考えてみるのは楽しいことです。(巨人のくだりでは、ちょっとデニケンを思い出した(^^;))
 他には『新編 酒に呑まれた頭』(ちくま文庫)。
 このくだりがいい。

 今日の東京にも色々な食べもの屋、料理屋があって、その中にはどうかすると旨いものを出すのもある。しかし店の空気がどうもよくない。つまり、客種が悪いということになるのかも知れなくて、折角こっちが期待を持って行っても、それが旨いものを出す店であればある程、そんなものを旨いと思うようじゃとか、こういうものがあることを始(ママ)めて知ったとはとかいう顔付きをした客が多くて、食べもの位のことでそんなに勿体振るならばと、こっちにも対抗意識が生じて、ただ食べる気でいるのが難しくなる。(略)結局は、東京に田舎ものが多くなったということなのだろうか。しかし江戸っ子が幅を利かしていた江戸以後の東京は、初めから田舎ものの町だった。田舎ものが今日の東京を作り、東京人になって、それがこの間まではアラスカや東京会館の客だった。東京で又旨い西洋料理が食べられるようになるには(そして或は、江戸前料理も復活するには)、戦後に東京で幅を利かし始めた田舎ものが新しい東京人になるまで待つ他ない。

 うまい!
 本当にね、有名店と言われるところは、どこへ行っても田舎モンのウンチクたれがいますよ。
 築地の「寿司清」じゃあ、病院の事務員(あすこはS路加が近いんでそこでしょうな)らしき男が、盛んに看護婦らしき女に、ウンチク、しかもそれが大したもんじゃなくて、例えば「金目鯛=稲取」みたいな、どっかでそのまま鵜呑みにしてきたようなのばっかりを垂れていた。かの「築地の寿司清」に女を連れてきた、というだけで物凄く気合い入って、いいとこ見せなきゃと思い込んでたんでしょうな。幸い連れの女性は大人しく聞いていたので、腹の中で馬鹿にしてるのか本当に感心しているのかわからなかったが。しかし聴いてるこっちは、そこそこの値段を払ったのに大変に不快な思いをした。まあそもそもこの店、人に食べ方を指図するから二度と行かないけど。
 そういうウンチクオヤジ、神田の「花ぶさ」にもいたな。30ぐらいの女性を連れた(独身であるのもわかるなー、という感じの女性)を連れた着流しの初老。
 あー、どーして、男って女を連れてるとウンチク垂れるんだ!!!
 …まそれはともかく。
 先日は、会社の近くのベトナム料理屋で、また、大人数で行動してばっかりそーな、いわゆる業界関係者(六本木が近いので)のグループが来て、そのうちほとんどが、フォーを頼んで「パクチー抜きで」と呼ばわった。わざわざ、「シャンツァイ(香菜)」をパクチーと言う人は、これだけエスニック用語が出回ってる今じゃ、自分がエスニック料理通であることをアピールしたい人と見て間違いない。昔からそういう用語を知っている人は、昔パクチーなんて言ったって誰にもわかってもらえなかった(今じゃマンゴープリンだってメジャーだけと、10年前は…でも好きな人はその頃から知ってましたよ)。そういう人は、その店で「香菜」で通っているようならそう言うし(この店もどっちかというとそうらしい)、パクチーと言った方がわかりやすそうな店ならパクチーと言う。空気読めるかどうかの違いですね。粋がらないの。で、話を戻すと、そのグループは、料理そっちのけで大声で業界話。
 余談ですが、仕事の話を声高にする人って、自分の仕事が人の仕事よりカッコイイって思ってる人ですね(某デパートのティールームじゃ、中年の女性がワインの買い付けの話を得々としていたし)。そういうのが一番カッコ悪いことに気づいてない。
 あと、すし屋で客が「むらさき」とか「あがり」とか「お愛想」と言うのは野暮、どころか「お愛想」なんて失礼にあたる。これは、お店の方がお客にお勘定をお願いする時に、「お愛想のないことですが」と言うことからきているし、「むらさき」も「あがり」も、お客さんにストレートな言い方が聴こえないように店員同士で使う言葉。だから、お客は普通に「お茶下さい」「お醤油回して下さい」でいいのだ。
 更には、前にも日記に書いた、ロブションで目撃したオヤジ。若い女性を盛んに口説いていながら、店員に「今日ロブションさん来てますよ」と言われて「ロブションって何?」とのたまった。逆に、そんな程度でこの店に来ているというのも、全く田舎ものが増えたとしか思えない。
 同じロブションで、私の隣に座るや、目の前の(カウンター席のみなので、店員がずらっと立っている)と盛んに会話し、オリジナルメニューを作ってもらい、恐らく六本木ヒルズ勤めで、その行動のほとんどが自分が常連であるということのアピールだった男。
 まあ、そんなところ。
 田村隆一さん(東京大塚生まれ)も、東京は、「古い田舎ものが新しい田舎ものを馬鹿にする町」と書いておられた。本当にそうだと思う。我が家は私で東京在住3代目、祖父母は戦前から東京に住んでいた。しかし実は「三代経って江戸っ子」というのは、単に3世代ではなく、3代にわたって同じ場所に住んでいて、ご近所関係を3代共有するぐらいじゃないと、その土地の人間にはなれない、という意味。我が家の場合住処は都内を転々としているので、それには当てはまらない。まあせいぜい、東京生まれ東京育ちの東京っ子程度だろう。
 しかし、ということは、大量に流入した戦後の田舎ものがまだまだ東京人になっていないわけだし、なる頃にはまた別の田舎ものが…
 一体いつになったら東京で、かつ、気持ちよく、旨いものが食えるんだろう?
 それにしても、吉田さんのエッセイってやっぱ最高。余裕があってちょっと人を食ったところもあって、でも、何でこんな風に表現できるのだろうというそれでいて嫌味のうまさ。読み進むのが惜しくてゆっくり読みたくなる。いずれ家にこもる時のためにでも、少しずつ買い集めておこうかしら(そのためには、他のものをいくつも処分しないと場所がないけど…)。