鈴木亨『新選組100話』(中公文庫)

 新選組100話 (中公文庫)
新選組100話 (中公文庫)

 何でかって、今私の中で新選組ルー大柴(=再ブーム)なのである。
 第一次ブームは高校生の時、第二次ブームがある年で、今はさしずめ第三次ブームということになる。
 とはいえ、今更片っ端から関連書を読んでみようという気も、ましてや女共の書いた、思い入れたっぷりと言うより思い入れしかない犯罪本を読む気などさらさらない。まあ、そこそこまともそうなものが目に入ればぼちぼちと行ってみよう、というだけである。(高校生の時に買った関連書籍はもう全部売ってしまった。今手元にあるのは数年前に中古で集めた斎藤一関連の本だけである。)
 幕末だとか新選組だとかいうのは、一次資料の数をフィクションと二次研究がはるかに超えた、つまり逆ピラミッド型の、「いびつなジャンル」だと思う。言い換えれば、歴史もので人気があるジャンルというのは間違いなく内訳がいびつだということである(同じようなものとしては三国志などがあり、このジャンルからも私は早々に手を引いた―結局東洋史学科での専門分野は日清戦争である)。こういうジャンルには、まともに取り組む暇はない。特に思い入れを持つべき素地(例えば血縁だとか出身地とか)でもない限り、傍観に徹するつもりだ。(逆に、まともに大学での研究として取り組んだり論文を書いたりするには、なるべくなら一次資料の方が二次文献より多いようなマイナージャンルの方がはるかにやりやすいのだ。って、当たり前だが。)
 まあ前置きはともかくとして。
 この本は、関連の人名を100項目立て、中には複数の項目を立てられている主要人物もいるから100人ではないが、それぞれについて資料・史料(つまりこのジャンルには「資料」とみなせるものは多くても「史料」が少ないのがネックなのだ)を挙げて軌跡を追っている。概ね学問的良心(論文書きの世界では、これはイコールいかに参考文献を正確に挙げるかである)に満ちたものと言っていいだろう。知りたい人物についての辞書的に使うこともできる。出典が明らかであり、参考とした資料についての評価がしっかりしている。この、「資料批判」こそ、歴史の研究そのものなのだ。巻末の資料一覧も、まあ手に入りやすい文庫でリストを手に入れたい人には、買っても損はない。
 但し、件の『新選組始末記』を「重要資料」として扱っているのだけはいただけない。当時はいざ知らず、今ではこの『始末記』も聞き書きではなくフィクションであることが明らかになっている。
 筆者は「はじめに」で、薩長新選組を比較して「卑劣な聡明さよりも、いさぎよい愚直さのほうが好ましい」と書いているが(筆者は会津人だそうである)、正にこのあたりが個人の好みの問題であって、この意見に身も心も同意できるほどの思い入れは私にはない。筆者は思い入れとある意味戦いつつ、わかりやすい筆致で1人1人の出処進退を明らかにしている。
 ちなみに、解説が赤間倭子さん(斎藤一研究に一生を捧げている方)というところも、ノーイグジットな感じの本である。