永井路子『流星 お市の方』上・下(文春文庫)

流星―お市の方〈上〉 (文春文庫)
流星―お市の方〈上〉 (文春文庫)永井 路子

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流星―お市の方〈下〉 (文春文庫)
流星―お市の方〈下〉 (文春文庫)永井 路子

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 先日読んだ『乱紋』は、お市の方の三人の娘の話なので、この『流星』の方を先に読んでおくと、娘それぞれに対する母親の予想が、『乱紋』で恐ろしくよく当たっていることがわかる(笑)。勿論どっちから読んでもいいのだが。
 『乱紋』では、まあよくここまでというぐらい仲の悪い三姉妹だが、確かに『流星』でお市は、別れに臨んで、娘たちがもうちゃんと生きていけることを確信してはいるが、「三人仲良くしろ」とは思ってない(笑)
 この『流星』でも『山霧』や他の戦国女性作品同様、女性の政略結婚はあくまで「スパイ兼親善使節の派遣」であって「人質を差し出した」わけではないことを主張している。永井さんの史料の読み込み振りは疑うわけにはいかないので、実際そうなのだろう。
 時代劇ではよく、「愛と政略の狭間で苦しむ夫婦像」が描かれる。その方がドラマになるからだ。しかし、そういう苦しみというのは、実家が敵になってしまったから愛する妻を殺さなければならない、という誤った歴史認識によるものである(永井さんに言わせれば)。
 対等の関係であるからこそ、妻の実家と戦火を交えることになった場合は、妻と娘は無事に実家に送り届けるのが慣わしだったそうだ(男子は父親のものなので渡さない)。
 …と、そう言われりゃそうかな、とも思う。しかし。
 対等の派遣だという割には、何でいつも女性なのか?
 永井さんは女性の政略結婚を、「セックスの伴った」スパイ、使節派遣、と表現しているが、いくら、「だから対等だ」と主張したところで、正にその「セックスの伴った」という部分こそが問題なのである。やはり「結婚」という形の「政略」に使われるのが女性であること自体、この政略結婚というシステムは結局、思想の問題ではなく根本的に生物学的な現実に従っていることの最大の証左なのだ。本当に対等なら、男性の婿入りが同じ数だけあってもいいわけだから。
 政略結婚が、従来の「人身御供」的とらえられ方をしているのは間違いだ、と明らかにしたことには意義がある。 
 しかし、では何故いつも女性なのか、という問いに対しては、「女性だから」という答えしかないのだ。
 「セックスを伴った使節」がいつも女性である以上、昔も今も女性の方がやはり「受け身」の存在とみなされていることに変わりはないと思う。
 ちなみに、私はそのことに何ら憤懣はない。誤った「平等」は嫌いだからだ。男女にはそんなに違いなんかない一方で、厳然たる違いもあることを認めるべきだと思う。