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 横溝正史『白と黒』(角川文庫)
 白と黒 (角川文庫―金田一耕助ファイル)
白と黒 (角川文庫―金田一耕助ファイル)
 昨日1日かかって読んだ。
 これも、文庫では何故か図書館に所蔵されておらず、かといって全集で借りると本が重い、ということで、読み逃していたのだと思う。ブックオフで、「そういえば読んでなかったな…」と、『三つ首塔』と共に購入。これは新装の方の角川文庫。でも、やっぱり横溝作品は杉本表紙がいいなぁ…大路さんも今大人気の装丁家ですけどね。
 「俺の人生を返せ」「何で俺の人生はこんなことになってしまったんだ」「こんなことしてるために大学まで出たんか」という、鬱々たる気分で読んでも…面白い(笑)。だもんで、ついつい昨日のうちに読み終えてしまった。
 いや、何でこんな気分になっていたかというと、生活の全てが段取りであり(朝起きた瞬間から子供が寝るまで)、しかし段取り通りにいかないのが嫌なのではなく、そもそも、子供という不確定要素が1つあるからこそ、それ以外のことをきちっと段取りしておけば、1日がその段取り通りにちゃんといくのだ。子供が起きそうになったら先に起きて身支度を整え朝食を食べておく、に始まり、夕食は合間を縫って5段階ぐらいかけて完成させるとか、夕方になったら風呂場と脱衣所に暖房を入れておいてとか、ミルクを飲んじゃったら30分かそこらはお風呂に入れられないからその間に何をするかとか。大分慣れてきて、段取り通りにいかないことはほとんどない(今後外出が増えたりすればまた変わるだろうが)。だからこそ、段取りだけで毎日を生きていることそれ自体に嫌気が差した。1日ぐらいは、何も予定を決めずに過ごしたいのである。で、一昨日大爆発を起こして、相方には大変に迷惑をかけたのである。申し訳ない。尤もこれには、誕生日をスルーされてしまった(これは許せん)という原因もあるけど。
 さて、本の話。これは、団地に怪文書が飛び交い、その住民の1人から金田一が相談を受けた途端に殺人が…という、まさにフィクションのような発端(いやホントにフィクションだし)。
 「あれ?怪文書ネタって、前にもあったよな?」と思って(この作品を未読なのは確かだ)、手元のムックで調べてみたところ、やはり、短編「渦の中の女」を基としていた。横溝先生は短編を長編化することがよくあるが、この長編も、グイグイ引っ張られる面白さは単なる改稿の域を超えている。『三つ首塔』同様、後期の傑作長編と言われるのはこういうものかと思わされる。詳しいことは書けないのだが、これも『三つ首塔』や他の、時代性を取り入れた作品同様に、アンダーグラウンドというかインモラルな要素を、正にその巣窟のごとく興味を引いた、「団地」という、家の1つ1つが閉鎖空間という時代性と上手く組み合わせて、ドロドロな事件を作り上げている。今は逆に、特に私なぞは都会に住んでいるし人生のほとんどがマンション住まいなので、一軒家って物騒そうだなとか、玄関に鍵をかけない(今でもそういう地域は沢山あるし、それぐらいの方が幸福だと思うが)なんて信じられない、と思うのだが、かつては、集合住宅の方が「隣に住んでいるのに何をしている人なのかわからない」「あんな狭い空間に鍵をかけて閉じこもるなんて」という特異な「新住宅」だったのだろう。今でも、私も「マンション」と言えばいいが、「団地」だと、ちょっとイヤン(笑)、と言う気がする。「団地妻」とか(オイオイ)、「社宅族」とか…。しかし本当に、この『白と黒』は、団地妻に送りつけられる怪文書(言うまでもなく、不身持の暴露である)…という、メロドラマのような発端である。
 推理小説とは結局いくつかのパターンの組み合わせであるということは早くから指摘されている。乱歩あたりもそう認識していたようだし、横溝先生も確かそうした発言をしていた。例えば、犯人は連続殺人を犯したがそれは計画的なのかいきあたりばったりなのか(計画的に見えていきあたりばったりなのか、その逆なのか)、動機すらもあるのかないのか、裏をかいた作戦なのか更に裏をかいて表に戻っているのか。腕が練れてくればくるほど、1つ1つのパターン自体が二重三重の構造になってきて、それら同士を見事に組み合わせて、大きな謎小さな謎を繰り出して読者を引きずりこむ。いやー、時間を、現実を忘れられるというのはこのことです。私にとって読書は元々現実逃避であって、何かを得ようなどと考えたことは一度もありません。横溝センセー、成城のセンセー(この方が亡くなる1年前に私は世田谷に引っ越していたのだが、大学に通う最寄駅として成城をうろつくようになった頃には、先生はこの世の人ではなかった)、何だかまた読みたくなってきた。