岩佐美代子『宮廷に生きる 天皇と 女房と』(笠間書院)

宮廷に生きる―天皇と女房と (古典ライブラリー)
宮廷に生きる―天皇と女房と (古典ライブラリー)岩佐 美代子

笠間書院 1997-07
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 先日、同著者の『宮廷文学のひそかな楽しみ』(文春新書)を読んだばかり。
 これまでの、宮廷に生きた女性についての、男性学者中心の研究がいかに間違いだらけか、ということは同時に、いかに現代ではあの時代の女性の生き方、特に明るい面がわかりにくくなっているか、ということを知り、今回の本も読んでしまった。
 先に、新書の方を読んでいただければ、これまでの研究における、実地的理解のなさがよくおわかり頂けると思う。この本は、入門向けではないが、鶴見大学での講演をまとめたもので、優しい語り口でとてもわかりやすい。
 そして、是非レビューしたい、と、読んでいる最中から思ったのだが、哀しいかな時間がないので、特に作者の死ぬほどの思いであろう部分の引用を中心に手短に。

 一言で言えば、私にとってこの岩佐女史の著書は、
「得たり」
に尽きる。
 これまでの宮廷女性研究、后妃や後宮の研究に何となく引っかかりを感じている人は勿論、そうでない人でも、今回のやや専門的な講演をまとめた本よりも、先に新書の方をふとでも手に取って頂ければ、非常に満足して頂けると思う。
 そして、何の間違いか、新書の方でもふと手に取った男よ、女の研究者の言葉など何の価値もないと思っている男性学者よ、
 脳ミソ洗え目を洗え。
 勿論、岩佐女史は何の立場もなく発言していらっしゃる方ではなく、普通に学者として大学で教鞭を取っていらっしゃる方である。研究界でそうそうそっぽを向かれている方ではない。が、やはり、きちんとした研究であればあるほど、読者としては心配になってしまう。男というのは、女が自分より優れていることは認めないから、ただその一点だけにおいて。

 さて。
 平安時代の宮廷女性の生活、というと、今では余りにイメージが漠然としている。みやびでのんびり、窮屈な宮仕え、色ボケ、着倒れ…
 大間違い。
 我々がいかに、江戸期以降=武家社会の女性像、に毒されているか、ということだ。これは私自身以前から感じていることであり、いくつかの本、特に最近では岩佐女史の著書を読むにつけ確信を深めていることである。
 日本において、戦国期までは女性が生き生きと働いていた、もしくは、江戸時代でも、むしろ庶民の女性は忍従なんぞ薬にもしたくないような生き方をしていた(これは他のジャンル、例えば落語の世界を理解するにも重要なことなのである)。しかしこの事実には、「明治以降の、江戸期についての教育」で完全に蓋がされてきたのだ、ということが、この岩佐氏の、昭和初期の宮仕え(昭和天皇第一皇女・照宮様のご学友)という実体験を通じて切々と記された著書でも、ようくわかる。
 この本についての説明からはややずれてしまうが、我々が今イメージする「日本の女性の歴史」は、実は長い歴史の間のことではなく、ほぼ完全に、江戸期以降、武家社会、あるいはそれを引き継いだ「明治の女」のイメージである。つまり本来は自由であった日本女性に枠をはめたのはたかだかここ400年のことに過ぎない。他の国の人々も、「自分の国」としてイメージするのがせいぜい近代の姿に基づいてであるのと同様、所詮人間の歴史認識など浅いものなのだ。

 (余計なことを言うようだが…池波正太郎作品は好きだ、しかし、彼の描く女も、「気ばたらき」だのと言っているが、実は江戸の武家の女もしくは母親に代表される明治の女に過ぎない。「時代小説」とは今ではほとんどが江戸時代の話だが、これだけで「日本の女性」をイメージするのはとんでもない間違いなのだ。これについてもいずれ落語の長屋暮らしと絡めてまとめて書きたいのだが時間がない。)

 しかし、違う。
 まさしく、「宮仕え」という言葉に「すまじきもの」とついてしまうようになったことが示すように、宮廷女房たちの生き生きとした人生は後世には完全に誤解されてしまった。
 また、この「女房」という言葉の意味の転落も、女性の地位のとめどもない低下を示すもの以外の何物でもない。かつては貴族女性の中でもエリートとして、仕事に恋にバリバリと人生を楽しんだ人々を示す言葉から、今では男が「うちの女房」と言えば、「自分が養ってやっている代わりに自分のために世話を焼く女」でしかない(これはこれで、女房という響きに喜びを感じる女性もいるだろうが…)。
 
 余りにも霞の向こうになってしまった時代のことも、勇気を出して掘り起こさなくてはならない。我々一般人ができないことに、今後は男の学者も衒わず捉われずに取り組んでほしい。

 (「女流日記」に対して「女房日記」の文学的評価が低いことについて)「僭越ではございますが、縷々述べてまいりましたような女房かたぎがもう実在しなくなり、正しく理解しえなくなっている所に原因するのではございませんでしょうか。」(22ページ)

 断片的な説明になってしまうのが勿体ないのだが、例えば、「同性に(純粋)に惚れる」ということが男の専売特許ではなく、優れた女性には女も惚れること。つまり人のやっていることなんて男女で違いはないのだ。それが女性については今イメージしにくくなっているのは、我々自身、かつて男女が対等であったことを信じていないせいだろう。(但し、私はフェミニストではない。何でもかんでも同じなら平等とは思わない。やはり女性にさせてはいけない仕事はあると思うし、ただ同じにすればいいだろうという政策に流れていることや、やたらな子作り推奨政府には危惧を感じる。男は自分の時間と仕事が欲しい、ならば女性も同じなのである。やはりそれぞれ自然に生きることができるための最善の策が必要なのであって、子供を増やせ託児所を増やせだけではないのだ。)
 定子皇后のユーモアと明るさに満ちた後宮。この、後宮という言葉も、今では、女の管理人はいてもあくまで男性のためにすぎない「大奥」のイメージが強すぎて、女の世界即ち陰湿、となっているが、実はそんなことはなかった。
 「仕える」ということ。「女房かたぎ」。うちのご主人様が一番、この方のためなら命も要らぬと思えること。これもまた、いつの間にやら男だけのものになっているがそんなことはない。
 また、この本で、生き生きとした女性たちの明るさ、男性と対等に認め合う姿を見ていると、やはり、生きることとは働くことなのではないか、とあらためて感じる。

 長くなるが引用する。
 「思いますのに、『私』の世界を確立するためには、女性はまず、『公』の世界、開かれた世界に生き、その空気を呼吸し、そこで鍛えられねばなりません。徹底して、『私』の世界に生きたかのように見える『蜻蛉日記』(筆者注:こちらは「女流日記」であって、「女房日記」よりも従来の評価が高い)の作者が、そもそもの執筆動機を、『天下の人の品たかきやと問はむためしにもせよかし』と対社会的意識をもって宣言しておりますし、和泉式部・孝標女・阿仏尼も、宮廷女房として多かれ少なかれ公的社会の空気を呼吸しております。それによってはじめて、『私』の意識も鮮明に自覚できるようになるのでございます。『公』のなくなった室町以後の女性には、『私』の自覚もなく、女流日記、女流文学成立の基盤は失われます。よく知らない分野で利いた風の事を申しまして恐縮でございますが、明治の最初の女流文学者、一葉の文学基盤にも、『女戸主』としての『公』への立場、責任感が働いていたはずだと存じます。」(100ページ)

 一番素晴らしいと思うのは、「『公』なくして『私』なし」という指摘である。確かに、現在主婦をやっていて、自分が働いていた頃のことが、働いていた頃よりもむしろ客観的に見えたりする。社会についても。
 私は、所謂「主婦の視点」だの、すぐキンキン声で叫ばれる、「台所を預かる立場」だのという言い方が大嫌いである。自分を自ら枠にはめた上で発言して、恥ずかしくないのだろうかと思う。むしろ狭い所に逃げ込んで安全な所から叫んでいるようでみっともなくさえある。折角、「公」を家の中という「外側」から眺めることができるのだから、自らを「狭い世界の住民」と貶めることなく、堂々と普通に発言すればいいのだ。勿論、「主婦の視点で」などと言えば男性に受けがいいという、日本の現在の社会がおかしいのも事実だが。
 ここで、では著者がどういう方かということをあらためて書いておくと、照宮成子内親王の、ご学友の中でも特に親しく、学業以外の時もお供をした方である。ご本人は後から知ったのだが、何と、ご学友というお役目には、何と宮内庁から正式の辞令が出ていたのだそうだ。さてここでも、今回の本を読んで頂ければ、宮中や近代の公家社会についてのイメージが変わる。著者にとっての最初の「公」とは、現代に唯一残った、本当の意味での「宮仕え」であった。そして、これまた現代の我々が窮屈とか儀式ずくめとか非人間的とかイメージする世界とは違った。「自由」なはずの「普通の社会」よりも、「宮仕え」にこそ、開かれた「公」があった、と、著者は考え、それが一生の研究の出発点になっている(勿論、宮様にお仕えするのだから厳しい決まりごとはあったし、普通の「仲良し」になれることもなく、宮様もまた、全員に平等に接した。それがどんなにお淋しかったことか、と、著者は今でも述べる。)結局、何が「公」であるかは人それぞれである、ということも忘れてはいけない。だから主婦を慰め男の肩を持つわけではないが、家庭にいても「私」だけではないことも忘れてはいけない。
 そして、もう一つ大事なのは、「鍛えられねば」という言葉だ。著者は、女性も稼いで生活力があった方が生きやすいだろう、という意味で働けと言っているのではない。社会に出るということは、何よりもまず「鍛えられる」機会であるという自覚。立派である。幼くして「辞令」を伴う立派な「お役目」をつとめてきた強さはここにも表れている。今は又、女性の地位向上が叫ばれているが、女性も働くのが当たり前だから(勿論親を養う必要もいずれはあるだろうが)とか、稼いで自由に生きたいとか、ただそれだけに流れていくのだとしたらそれもまたあやういことである。鍛えられている、と自覚することで、人は謙虚になり、より強くなっていけるのだろう。これもまた、仕事は長続きせず、とうとう家にこもっている今だからこそ痛切に感じるのだが。

 「恋にしか、また母性愛にしか、女性の生涯の中に『真実』はない、などと狭い考えをお持ちにならないで、一個の社会人として心の中の『真実』を語った作品として、これら多くの女房日記を、もう一度お読みになってみて下さいまし。(後略)』(121ページ)
 「(『蜻蛉日記』の、衣装についてのくだりで)しかし公平な眼で社会を見渡せば、須勢理比売の満たされぬ思いは、今なお現代まで連綿と続く、妻の、また女の憂鬱でございます。それは独り男女間の愛情の問題だけではありません。才能のある者が、単に女であり妻であるが故に、社会に向けてそれを発揮する事ができないという理不尽さへの、不満、鬱屈でございます。」(174ページ)

 前後を引用する暇がないのが残念だが、誤解のないよう言い添えておくと、著者は決してガチガチのフェミニストではなく、既婚者であり、恐らくお子様もいらっしゃるであろう女性である(と、予防線を張っておくのも弱気だが)。
 私自身、全然、何でも同じでなければいけないとは思わないし、主婦であれ結構普通にやっている。そればかりにではないが、確かに恋にも子育てにも真実はきっとあるだろう。ただ、それは誰かに押し付けられて知ることではないし、自ら知ったならそうだと自覚して、誇りを持った方がいい。仕事がなく金のない女には制約が色々あるから、そういう自覚がないとなかなか潰れずにやっていくのは難しいのだ。
 だから、主婦が、既に述べたように、主婦の視点とか言うことは、家庭と社会のつながりを自ら否定することだと思う。家庭は決して社会から切り離されてはいない。女性自らが、切り離されていると思うことは、誰かのどこかの思う壺である。
 それに、一度は社会で働くべきであるということには賛成だが、逆に、一度は家に入るというのもまた必要なことだと思う。
 だから結局…女性も、普通に呼吸をして、普通に生きられればいいのだ。
 それに…
 男性の方が、ずっと「公」の世界にいるくせに、「私」の世界を確立し、それを楽しむことが下手になったのは、女性よりももっと昔からなのかもしれない。