池波正太郎『梅安蟻地獄』『梅安最合傘』(講談社文庫)

 

梅安蟻地獄―仕掛人・藤枝梅安〈2〉 (講談社文庫)
梅安蟻地獄―仕掛人・藤枝梅安〈2〉 (講談社文庫)池波 正太郎

講談社 2001-04
売り上げランキング : 21759

おすすめ平均 star
star本作で形を成した梅安シリーズ
star美しき作品群
star短編集

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
 このシリーズの『梅安針供養』と『梅安乱れ雲』(共に長編)を読んだ、と少し前の日記に書いた。
 http://d.hatena.ne.jp/t_masamune/20090202/p2
 実は、所謂「交換本コーナー」(要らない本を置いていったり、欲しい本があったら持って行っていいというあれね)でこの2冊をもらってきて読んだのだが、そうしたらまたぞろシリーズ全部が読みたくなってしまったので、読んでいるところだ。
 この梅安シリーズは何度も読み返しているシリーズである。というより池波作品は小説もエッセイも全部読んだ。
 面白いからである。その理由についてはもう何百何千という方が意見を持っていらっしゃるし書いていらっしゃる方もいようから今まで書いたこともないしここでも書かない。
 ただ、今回この『蟻地獄』について少し書く気になったのは、ある一文に非常に感銘を受けてしまったからである。
 主人公達がある料理屋で食事をするシーンの説明に、
「安価で美味なるがゆえに、庶民の食欲が明るくみたされる店であった。」
とある。
 この、「明るくみたされる」という表現、素晴らしい。
 言葉遣いは単純なのに、何と深くそして楽しい言い方だろう。
 私がこの一文に感銘を受けてしまったのは、逆に私が暫くの間食欲を「明るくみたしていない」ことに気づいたからである。
 子供が寝ているうちにとか、子供がおもちゃに夢中になっているうちに、急いで食べてしまおうという飯だの、夜旦那を待ちながら1人で食う飯なんてものは、食欲を満たしてはいるものの明るくみたしていない。多分そのせいで、食べ終わった後も満たされなかったり、お腹は一杯なのに口だけ淋しかったりするのだろう・・・
 食欲は、「明るく」みたすことがどんなに大事なのか、この一文で思い知らされた。(結果として太る食生活は、実は食欲を暗く満たす生活をしているからだということも…)
 明るくみたしたいなあ。食欲は。
 つまりは食事はいい気分で、楽しく、そして時間にゆとりを持ち、できれば2人以上で食べたいものだ。別に好きでそうしている時は1人でもいいのだが(1人でファーストフードや回転寿司に入るのも大好きだ)。
 あと、「安価で美味」もいいねぇ。
 こんな店ないよ!(笑)
 そうそう、このレベルで何この値段?っていう外食も、食欲を暗くみたすね。
 もう最近こんなのばっかりだね。
 外食が高い。そして不味い。そしてそして、たまに高級店に行くと幸いにして味がまともでもサーヴィングがひどい。日本にはチップ制度がないので従業員が育たないという話は辻静雄さんのご著書を読んで頂けるとよくわかる。とにかく日本はつくづく職人の国なのだろう、味で本場に追いつくことはいいことだし素晴らしい能力だと思う。しかし、特に西洋料理で従業員が、サーヴィスのタイミングが良くなかったりどうでもいい説明は一方的にするのにこちらの質問はスルーしたりということばかりである。
 入った店が美味くて安く、そして気の合った相手と。ああ食欲は明るくみたしたい。みたさねば食事が無駄になる。そうそうあと何十年も生きるわけではないのだから残りの食事の数も限られているのだから、ここ数年の食生活、ではなく「食事生活」は、口惜しいばかりである。そんなことを、強く思った。

 池波正太郎は好きだが、少々屈折した気持ちは抱いている。どこがどうとは上手く言えないが時々鼻につくこともあるからだ。まあどんな作家とて多くの作品やエッセイを読み続けていれば段々と鼻についてはくるものだが。
 3シリーズの中で一番好きなのは梅安なのだが、これは一番鼻につかないからである(笑)。鬼平は、現実の長谷川平蔵が作中の人物とは全く逆だったことを知った、ということもあるし鼻につくことがあるとしか言いようがない。剣客商売は、嫌な所はないが、より梅安の方が好きだ。作品数が少ないというのもあるが毎度謎解きの面白さが凝縮されているし、緊張感に満ちた男の世界、一番男臭いところがいいのかもしれない。
 もう少し詳しく、一つだけ例を挙げるとすると、池波正太郎の女性観の偏りが嫌いなのかもしれない。
 彼の言う「むかしの女性」―気ばたらきがいいとか、彼が見てきた母親に代表される女性像―は、実は彼が描く江戸時代の、庶民の女性には存在しない。
 高橋克彦さんと杉浦日向子さんの共著『その日ぐらし―江戸っ子人生のすすめ』(PHP文庫)に詳しく書かれているのだが、江戸時代の、特に彼の主に描く土地でもある江戸の長屋の女性は、むしろ現代の女性に近いのである。
 都会には男が余っていて、結婚してやるだけ有難いと思えの女性上位。井戸端会議などと言われるが洗濯は洗濯婆などが回ってくるし、おかずは煮売り屋が売りに来るから、用意するのは飯だけ。しなくてはいけないのは子育てと化粧とお喋り、というのが嘘のようだが本当らしい。池波氏は「最近では包丁もない家もあるようだが…」とエッセイで嘆いておられるが、江戸時代の長屋の女性だって包丁を持っていないことさえ多かったのである。
 江戸の長屋の、というのは一例ではあるが、全般に、彼が漠然と、自分の知る「いい女性」として思い描いた女性は、少なくとも彼の専門である江戸の庶民の女性ではない。むしろ明治以後の封建社会(江戸時代よりもむしろ封建の度は高いという見方さえある)の女性か、江戸期以前であっても武家の女性のみである。何が言いたいかというと、彼は、彼が直接知っている「明治の女性」(江戸期の庶民の女性よりははるかに不自由である)が、そのまま日本のそれ以前の女性であったと思っているようなのである。もしかしたら日本史上最も女性が不自由だった時代の女性が強いられて美点としていたものが、真実女性の美点であると。(前近代の女性の扱いが明治以後よりひどかったとは決して言えないのだ←永井道子さんの研究辺りを読んで頂けると有難い。)
 これが私の思う、池波氏の言う「むかしの女性」の間違いであり、女性観の偏りである。ただそれを普遍のものとして押し付けてしまえる筆力があるのも確かなのである。だからややこしいのだ。
 これだけの説明では足りていないとは思うし、単純に理想の女性像を描くという点ではいつの時代でも変わりはないだろうから(例えば梅安シリーズなら梅安の恋人というか馴染みのおもん)、彼のいう「いい女」をいいと思うのならそれでいいのだろう。ただ、池波氏の「昔の女性はよかった」語りは、単純に信じてはいけないものであるということは、心のどこかに留めておいてほしいと思う。
 

その日ぐらし―江戸っ子人生のすすめ (PHP文庫)
その日ぐらし―江戸っ子人生のすすめ (PHP文庫)高橋 克彦

PHP研究所 1994-04
売り上げランキング : 524124

おすすめ平均 star
star江戸っ子人生わんだふる!

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
 (↑この本で知った落語の色々なことから思ったことも、いつかまとめたいのだが…)

 しかし、池波作品を批判するつもりはない。とにかく面白い。読み始めたら終わるまで止められない。このところ読んだ4冊全てそうである。子供が泣いても読んでいる。子育ての敵である。
 また、皆さん仰っていることだが、読み返すたびに面白い。自分の経験が増えると、登場人物たちの考えについての意見も違ってくる。例えば結婚して子供を持って思ったのは、梅安の女性観、母親観も大分偏ってるなあということ(笑)。悪女や、子供を捨てる女性に対して殺意さえ覚える梅安だが(『最合傘』)、捨てた女性はただ悪い女なのではない。好きで捨てる女なんて本当はいないのだ。だから梅安が思うほど(=池波氏が悪く描くほど)、その女性も過去を忘れきったわけではないと思う。とまあともあれ、何度でも読めるのだ。

 おまけ。

梅安最合傘―仕掛人・藤枝梅安〈3〉 (講談社文庫)
梅安最合傘―仕掛人・藤枝梅安〈3〉 (講談社文庫)池波 正太郎

講談社 2001-04
売り上げランキング : 20844

おすすめ平均 star
star日本語は色っぽい

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
 『梅安最合傘』の解説が池波志乃さんなのだが、その中に、
「祖父の志ん生は味噌汁に二種類以上のものがはいっていると『どっちが主役なんだい?』と言って食べませんでした。どっちの方が美味しいとか不味いとかじゃない。
 こだわりなんでしょうね。」
 これ、うちの母も一緒…。
 1種類じゃなきゃ駄目とは言わないが、何種類も具が入っている、例えば豚汁やけんちん汁のようなものは「下品」だと言う。志ん生の方は「粋」なのだろうが、うちの母のは何なんだろう。祖母つまり母の母もそうである。祖母の代から東京で、祖母の母つまり曾祖母は士族(そういう区分で言えば曽祖父の方が平民)なのだが、関係ないだろうなあ。これは好みの問題だと思う。
 私は具が沢山入っているのが好きで、具が1〜2種類ぐらいのものを上品だなどとは思わない。むしろ豚汁大好きだ。そうだ明後日は鮭のアラで粕汁だ!そういえば母は魚のアラ関係が駄目だし、そもそも味噌汁が嫌いである。粋だとか品だとかって、めんどくさいものだ。
 この、『梅安最合傘』は、艶っぽい話が(男女とは限らず(笑))多い巻かもしれない。
 梅安って色々なイメージがあるけど、実はまだ30代だしなあ。