肯定としての死:下の記事と関連して
ねたばれあるので注意。 ねたばれあるので「続きを読む」で。
↓こういうのが出てた。あと昔、イメージサントラも持ってたなあ。
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でも…
今回の舞台を観たり、あとは私が齢を取ったせいか、これもアリかな、とも思えました。
心の安定や健やかさは、生まれ持った能力とは全く無関係。だから、誰もが憧れて崇拝する美貌と才能を持っていようが、幸せには程遠かったアッシュ。しかも、美貌と才能は彼を面倒事にしか巻き込まなかった。
それが、英二と出会い、初めて人の誠実さを知り、幸せを教えてもらい、初めて自分を全面肯定してもらい、初めて自分が生きていることを実感した。
そして、手に入れた幸せが正に実を結ぶ=具体的には、英二からの手紙に添えられた日本行きのチケット、今度こそ人生を完全に変える方法=かに思えた瞬間、人生が終わる。
何じゃそりゃ!
と思ったものですし今でもやっぱり、死なせまでせんでもよかったんでない?と思うには思うのですが…
「とうとう生きて幸せにはなれなかった」というのも、これはこれで、彼の生き方を肯定しているのかもしれない。私が何故ハッピーエンド至上主義かというと、死ってのは全部の終わりで、それまでやってきたことへの否定だと思っているからです。死んでしまえばおしまいよぅ。だから、死んでしまうという結末を許せるのも、死ぬことで永遠になるなんて思うからではありません。ただ、この『BANANA FISH」』における主人公の死は珍しく、それまで彼が生きてきた上でのあり方を否定してはいないなと思ったからです。肯定としての死。(でもあくまでこの作品だからであって、有象無象の書き手が死を乱発するのは論外。)
だからこそ、「ぼくの魂は永遠に君と共に在る」という、再会は望んでいるけれどももしかして二度と会えないことも想定した英二の手紙が生きてくる。
逆に、アッシュが死んだと知るまで、アッシュが幸せであったと信じている英二の姿と、彼の死を知った時の英二を想像するのは辛い。番外編で見られる、後の彼の姿は全てを乗り越えた後だというのが救いだ。