井上祐美子『紅顔』(中公文庫)

 

紅顔 (中公文庫)
紅顔 (中公文庫)井上 祐美子

中央公論新社 2008-09
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 今朝読み始めてやっぱり面白くて、子供が起きてくるまでに一気読み。
 なかなか簡単にはわかりにくい時代(明末清初の長い動乱期)の話で、普通に読んで読めれば勿論問題ないけれど、やはり歴史的背景が一通りわかっている程度の知識はあった方がより楽しめるだろう。
 先日読んだ、清の真の建国者ドルゴンを描いた『海東青』の、最後の方に少しだけ出てきた呉三桂と、その愛妾陳円円の物語。『海東青』での呉も、学校で習うような単なる売国奴とは違った感じだったのでおやっと思ったのだが、彼を主人公としたこの作品も、同じく、表面的な言い伝えとは異なる、動乱期の不思議な男女関係を描いたものである。(勿論、明の側から見た偉人ドルゴン、という側面もあるので、是非『海東青』の方もセットで読んでほしい!)
 一般的には、呉三桂は都に残してきた愛妾を、国を裏切って都を蹂躙する李自成の部将に奪われたことで山海関を明け渡して清軍を導き入れた売国奴、とされている。故に円円もまた傾国の美女の1人である。(天下の難関・山海関は「内側から開かれない限り絶対に陥落しない」と言われていた、と、大学の授業で習った)
 しかし実際には、愛妾どころか、蘇州一の美女として人の手から手へ売られてきた円円は、流石に後宮には受け入れられずに戻されて仕方なく呉に押し付けられ、山海関が開く前には僅か数日しか呉と過ごしていなかった。(だとしてもよっぽどの美人だから、傾国伝説も生まれるわけだが…)
 タイトルの「紅顔」とは、後に詩にうたわれた円円のこと。紅顔の美少年、という言葉は知っていたが、うら若い美しい女性の顔のことも紅顔って言うんですねえ。
 この詩については、Wiki呉三桂の項を。
 その円円を、丁重に扱い、呉に返したのがドルゴンだった。ドルゴンに逆らえば、ただ女のために国を裏切った汚名だけが残ってしまう。二重三重に縛られ圧倒される呉。
 ドルゴンが「皇帝になれるのにならなかった男」なら、呉三桂は、いつ明を裏切ってもいい動乱期の武将だが数日の差で即位(と言っても、うまいことやらないと李自成同様帝位僭称だが)を逃し、ただ売国奴の汚名だけが残った男である。
 明滅亡時にはまだ30代で、動乱期にふさわしい野望もあったが、その前に立ち塞がったのが、圧倒的に器の違うドルゴン。結局の所、呉は、明の遺臣(と称する輩も、情勢が悪くなればこぞって清に尻尾を振る様子も描かれている)にとっては、清国草創期に、その走狗として働いた武将に過ぎなかった。
 その呉の、隠した野望を拾って持ち続けた円円。
 通説では国を裏切るほど愛したはずの彼女と呉との関係は、意外にも淡々としたものだった。呉は権力を得れば得るだけ次々と新しい女性を入れた。だが、最初に唯一、彼の野望を理解してくれた円円とは、離れるどころか年を経るほど別れ難く、大切な存在になっていく。
 このあたり、不思議すぎて、読み終わってみるとよくわかりません(笑)。凄く面白い本だったのですが。
 でも、呉にも呉の言い分があるんだとか、移り変わりの激しい時代の人々のことは決して表面的な記録だけではわからないものだとか、とにかく色々なことがわかって、ハァーとため息しかなかったです。
 長いんですよね、明末、っていうか、最後の皇帝が死んで国号は一応清になってるんで、時代的には清初にあたる時期の動乱って。
 明の最後の皇帝・崇禎帝は、一族を自ら手にかけた後、紫禁城の裏山の木で首を括って死ぬ。北京に行った時、今は景山公園となっているその裏山(ここから見る紫禁城も素晴らしい!)で、「これが崇禎帝が首を吊った木です」ってガイドさんに教えられた(そういう看板も立っている)けど、そうかー!?本当にそうかー!?まあ、三国志ツアーなんか行くと、ガイドさんが平然と「これが曹操が馬をつないだ木です」とか言うらしいから、それよりはまあ時代が近いだけちょっとだけ信じられるかな(笑)。
 というわけで、帝は死ねば済むけれど、まだまだ民の苦しみも、有象無象の皇族の反乱も続く。
 それだけ明は大きな国だし、皇族が無駄に多すぎ!(笑)
 元々明は南から起こった帝国なので、江南にも拠点やら、担ぎ出される皇族やらが多すぎて、北から来て北京を制圧した清軍と雖もなっかなか全土制圧には至らない。だからこそ、歴戦の兵である呉も活躍することになったわけですが。
 その間には、『揚州十日記』にも描かれた皆殺しの悲劇や、『蜀碧』に見られるような張献忠の暴虐もあった。
 ほとんどが伝説で有名ながら、日本人を母に持つ”国姓爺”鄭成功のエピソードも。
 国が変わるということは、単に都で政権が移譲されれば済むわけではないんですね。作者井上氏が好んで描く南宋もそうですが、国が変わる時には戦争は勿論、高い身分にあった人は身の処し方をどうするか、人によって価値観が違うので、分かり合えなかったり、誤解して罵り合ったりと、実に様々な争いが起きる。
 この作品で描かれるもう1つのカップルは、呉同様、心ならずも二君に仕えた文官とその妻(妓女上がりだが有名な女性文人)。結果的に「弐臣」(二君に仕えた者)と記録されようと、そこには様々な葛藤や戦いがあった。
 そして庶民は、上がどう変わろうと、生き延びるためには忠誠なんかどうでもいいでしょう。それに対して高位の人間だって文句は言えないはず。
 生か死か。正しい政治を望むか、民族の誇りをあくまでも守るのか。腐敗した王朝に仕え続けるべきなのか、新たな支配者の下で腕を振るうか。
 本当に人それぞれ。それぞれであって、歴史は全てを呑み込んで大きくうねって動いていく。もうそれだけのことだとつくづく思いました。
 そして、秘めたはずの野望を、ついに円円が呉に押し返す時が来る。
 …いや、賢い女性なら、秘めたままにしておけば?って思ったんですけど(笑)。
 この、耐え切れませんって言っちゃうあたり、単に素敵な美女と梟雄の運命の恋物語、じゃないんですよねえ。最初に円円が抱いたのは、恋心ではあったのだけれど。むしろ円円が、素朴すぎるほど自身には何の望みもない女性で、呉もまた、彼女ゆえにドルゴンに刃向かう機会も力もなくしたのに、遂に藩王の安泰に埋もれることはできなかった。
 井上氏の、他の作品でも、「傾国と言われるのは、妓女にとっては何の恥でもなくむしろ誇り」と言わせているが、悪名だってそれを受ける立場によっては褒め言葉にもなる。これは確かに正しいと思った。だから円円もまた、後世に悪女と呼ばれようとどうでもよかった。中国の知識人は死後の自分の評判を非常に気にするのが特徴ではありますが、別に気にしない人も、生きるだけ生きてみる人もいる。それでいいと思う。
 結局、ドルゴンとの器の差も、このまま「三藩」(清建国に功績のあった3人の明の高官)の1人として四川の地で自らの死までは安泰であろうことも、わかってはいながら、呉は清の4代目、名君康煕帝を挑発し、反逆者となる。
 聴こえてくる名君との噂に、呉は、康熙帝がドルゴンの生まれ変わりではないかとふと思う。ドルゴンの早死には「万全の条件を与えて転生させるため」に天がそうしたのではないかと。
 これ、アリかも!と思いました。この、「万全の条件」ってイイ!ドルゴン好きとしては、ありえないけどそうだったら嬉しい。
 北京に入ったのは3代目とはいえ、ヌルハチから数えれば既に4代目。16歳になったばかりのこの康熙帝に呉は敗れ、病死します。そして清朝はこの後、「康・雍・乾の隆盛」と言われる時代に入ります(その後の「嘉慶帝」が、こないだ清朝の皇帝を思い浮かべてみて、1人だけ思い出せないぐらい影薄いけどな…)。
 円円のその後は、不明です。元々、余り史書に記述はない女性でした。結局の所、男と女の仲は当人同士にしかわかりません。後世の人間はただ、有名なカップルに様々な名前をつけたり推測してみるだけのことです。
 偶々その時代に生まれ、野心を抱き、その野心を飼いならすことに腐心し、とうとう、運命の女性が捨てることなく預かっていた野心によって滅びる。
 ただただ、「歴史の授業」ではどう教えられようと、激しく、力の限り葛藤して生き抜いた人生には心動かされます。
 
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 この本は、大学の時に明代を専門にしている先生がタイトルを挙げていたので読んでみた(古本で買って持ってる…)。ひたすら全編人が殺されまくる話。読んでいてかなーり食欲をなくす。
 
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