関連して:もらえないと終われない―死後の諡号の話

 最近井上祐美子さんの本、つまり中国の宋代以後の小説を読んでいて、あーこのへんは好きだけど細かい知識抜けてたなあと、Wikiであれこれと読んでみて、リンクリンクで辿って(これがきりがないんだな(笑))清朝皇帝も1人1人読んでいって、当然最終的には溥儀に至るわけである。
 で、この溥儀にもついに「廟号」(公式ではないけど)が贈られていた(記事)と知って、ああもうそういう時期にきたのかなあと、ちょっと感慨。
 廟号についてもWikiの記事を参考に。
 溥儀にはそれまでの皇帝と違って、退位も何もごたごたしていたせいか、これまでずっと、「宣統帝」という通称しかなかった。でも、「元号+帝」はあくまで通称。中国では明初(確か永楽帝の時)から、日本でいう一世一元の制を採っていたので、1人の皇帝に1つの元号だからその元号で呼ぶことができる。清朝も同じ制度だったので、ヌルハチホンタイジ以外は皆元号に「帝」をつけて呼ばれる。
 例えば、溥儀の前(伯父)の「光緒帝」は通称で、正式には「徳宗景皇帝」。「徳宗」が廟号で、「景」が諡号。しかし「徳」といい「景」といい、悲惨な生涯ばかりが有名ですが実は死後の扱いは非常にいいです。前漢の「文景の治」という言葉があるように、文帝だの景帝だのというのは名君に贈られる諡号です。生前には思うような政治ができなかった彼ですし、彼の死後数年で清朝は滅んでしまいましたが、その短い間にちゃんとこんなにいい名前をもらっているということは、やはり相当の人望があったのかなあと推測します。
 ちなみに清朝では、西太后の夫が「文宗」。この、もう清朝がやばい時期にきて「文」を出してきたのは、逆に言えばここで使わずにいつ使うのだ!なのかもしれない。普通、「文」という諡号は王朝の初期に出てくることが多いです。魏の初代皇帝曹丕は「文帝」。でもって、父曹操は「我は周の文王たらん」とか折角かっこいいことを言ってみたのに(笑)、あえなく息子に「武帝」の諡号を追贈されて皇帝になってしまった(だから彼が史上初めて『孫子』に注をつけたその注は「魏武注」と呼ばれる)。しかも中国においては「文東武西」と言って武よりも文を重んじられるため、諡号も、武よりも文の方が位の高いのに、息子が「文」を取っちゃってるという(笑)。しかしこの曹丕という人も文才があったり、学問の価値を非常に重んじた(彼の『典論』に曰く「文章は経国の大業、不朽の盛事」)点は尊敬しておりますです。
 王朝の最後の方になると、「哀帝」とか、そのテの物悲し〜い諡号になるんですよね毎回(笑)
 廟号に話を戻すと、「〜祖」の方が「〜宗」より上。「祖」は大抵王朝の創始者につきます(明の太祖朱元璋、清の太祖ヌルハチetc.)。ただ、創始者でなくても超名君と言われれば「祖」がつく(明の太宗→成祖永楽帝、清の聖祖康熙帝etc.)。ちなみに、「祖宗」と言うと大体ご先祖様を意味しますが、歴史書に出てくる「祖」では、「皇祖」と言うと皇帝の祖父、「皇考」が皇帝の父のこと。で、誰かが皇帝になると大抵「皇考」か、あるいは「皇祖」ぐらいまでは帝号を追贈しちゃうので、実際には皇帝じゃなかった皇帝が増えるのも常(笑)。先に挙げた曹操や、晋の初代皇帝司馬炎が祖父司馬イ(字出すのが面倒なのでカタカナ)にも帝号をあげちゃったので「高祖」で「宣帝」。故に彼の伝記は『三国志』ではなく『晋書』(他の正史と違って、編纂されるまで時代が空いたので信憑性はやや落ちるとされる…)に初代皇帝として載っている。
 で、溥儀の「恭宗」ですが、これもどうも次の支配者から見た評価ですかねえ。廟号というのは子孫が親を評価してつける「諡号」(所謂「おくりな」)とは違って(「子供が親を評価すんな」と、自らを「始皇帝」とし、後は二世、三世でいい、としたのが秦の始皇帝だけど)、あくまで廟に祀られるための名前なんだけれども、やはり評価は伴うと思う。何かしら評価しないとつけようがない気がする。
 「恭」なんてのは「恭順」というぐらいで、後漢最後の皇帝が「献帝」(生前、「禅譲」してからは山陽公だったか何かに封じられて余生を送ったけど、死後に最後の皇帝として廟号を贈られている)で、彼が帝位を譲った魏の側から見たちょっと嘲りのニュアンスのある諡号なのと同様、やはり「次の支配者に位を快く譲った」というニュアンスがある(献帝同様、勿論「快く」なんかじゃないけど、「禅譲」=実際には廃位であると同様、王朝交代においてはそういうレトリックなんですよ中国では(笑))。
 まあ、人の評価は棺を覆いてとはいえ、溥儀の場合この人の評価なんてまだまだ当分定まりそうにない。でも、入江曜子さんの著書によれば、現代中国が糾弾しているのは「偽満州帝国」とその構成員であって、別に清王朝を前近代の悪いものと考えているわけではないそうです。とすれば、あくまで「清朝最後の皇帝」としての死後の扱いは受けてもいいわけで、というか彼が最後に死後の名前をもらわないと「中国歴代皇帝の歴史」が完結しない(笑)。非公式とはいえ廟号と、旧清朝からみての「遜帝」なる諡号?が揃い、何となく動いてきてはいますね。いずれもっと正式なものが決まるのかもしれませんが、決まれば漸く、「中国最後の皇帝」としての彼の死後はやっと安定し、やっと全てが終わるという感じですね。正史だっていつまでも『清史稿』のままではいられませんし。
 他の時代と違い、清朝はまだ「次の王朝による歴史書」=正史が正式に出来上がっていないため、一旦刊行されて現在使われているものはあくまで『稿』です。噂では大陸と台湾が別々のを作ってるとかいないとか…。私が大学の時使っていたのはどっちだったか。未だに、新しい研究成果を追加して作成中。とはいえ、清にもなるともう『清実録』『東華録』(どっちも正式名称はもっと長い)といった、正史ではないものの公式の記録があるので、研究にはそんなに困らないんですけど。私は日清戦争の時代を研究していたので、使ったのは時代を取って通称『徳宗景皇帝実録』『光緒朝東華録』。
 ちなみに「おくりな」は皇族や臣下ももらうことがあって、皇族だと例えば醇親王(初代=光緒帝の弟)は「賢」という字をもらったので正式の記録では「醇賢親王」。川島芳子の父、第10代粛親王は「忠」なので「粛忠親王」。臣下では李鴻章が「文忠」の諡を与えられ、「李文忠公」。だから私が一番使った史料は『李文忠公全集』(彼が出した公式文書が集められたもの)。この「文忠」なんてのは、臣下としてはかなりハイレベルですねー。曽国藩は、今調べてみたら「文正公」でした。それなりにですね。
 と、まるでオチのない記事ですが、死後の評価が端的に出るこういう習慣は、見てる分には結構面白いです。