井上祐美子『雅歌』(集英社)

 

雅歌
雅歌井上 祐美子

集英社 2001-07
売り上げランキング : 822789

おすすめ平均 star
star『雅歌』
star重すぎるテーマに疲れ切った作者

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
 のっけから系図が出てきてしかもその、漢人ではない名前に無理矢理漢字を当てた人々の名前の横にカタカナの西洋名まで書かれているんだから大変である。
 どうやらこれは清の初期に、キリスト教に改宗した一族の話であるらしい。これは厄介だぞと心構えして読み始めたのだが、やはりこれも、ついつい読まされてしまい、読み終われば長嘆息である。…って、読み終わってさてどう表現しようかというと難しいのもいつものことだが(笑)
 改宗しちゃった一族というのが、何とヌルハチの嫡長子・チュエンの子孫だから大変である。『海東青 摂政王ドルゴン』では、ドルゴンにとっては厄介な相手だったチュエンの。だから彼らは皇室の直系も直系どころか、現皇帝よりも本当は高貴な血統でさえあった。
 この一族がもう、迫害されにされまくる。
 たまたま中国人修道士・ジュリアン李の危機を救い、この一族に関わってしまった満州人高官の弟・フランは、兄フルダンから、教会に出入りを続け、見聞きしたことを報告するよう命じられる。兄は元は情報網を司る役所の人間だった。
 チュエンの子孫一族が迫害されまくるのは、別にキリスト教を信じているからではなく、元々は現皇帝・雍正帝の即位前に兄弟で帝位を争った時に誰が誰に与していたという話がずっと引きずられているせいなのだが(こうして一族内の権力闘争をしてると鎌倉幕府みたいに見えるなー)、皇帝の弾圧に対して、全てを神の御心として彼らが従えば従うほど、弾圧する側も立場を失って更に事態は厄介なことになってしまう。
 しかし弾圧が厳しさを増すに従い、一族側の死者(処刑されたわけではなく、過酷な地や牢での病死)も1人、また1人。一族の美少女・マリアこと祥児を恋するようになったフランにもどうすることもできない。
 この、主人公は別にどうすることもできない、っていう話だからわけわからんわけで(笑)。何も解決しないのである。キリスト教を信じている人間には、責め苦も神の思し召し、しかし逆にいい思いをさせてやっても神の恵みでは、為政者としてはやってられないし、議論にもならないのである。しかも清朝は、修道士たちがもたらす西洋の技術は欲しいし、西洋諸国の手前、信教の自由は認めている(元朝といい、異民族の王朝は元々自分たちが異民族だからか、宗教に寛容である)。しかもそもそもは帝位争いだった。皇帝という位にあれば誰もそうなのだと作者は主人公にわからせているのだが、雍正帝はとにかく猜疑心を捨てることができず、長い長いチュエン家迫害は終わるともなく、皇帝としても、振り上げた拳の下ろし所もなく、彼らが棄教さえすれば収まるところをそうしないから、せめて病死してくれればいいという、埒の明かない状態に。
 で、読んでいる間は、ああこの人たちどうなっちゃうの、で、止まらないのだが、終わってみると…何が言いたい話だったんだろうと(^^;)。
 強引に考えれば、主人公が何を解決するわけでもなく、キリスト教に改宗するわけでもない、ということに意味があるのかな。痛快な冒険小説ではないということに。かといって、従容として弾圧を受け続ける一族の姿を通してキリスト教の素晴らしさを訴えるなんてことはもっとない。
 とにかくいろんなことが書き込まれていて、読んでいる間楽しませてもらえる、ということだ。政治と宗教。権力闘争と宗教。皇帝という「至尊の位」の、誰にも理解されない苦悩。様々な問題が含まれているけれど、どれ1つとしてこの作品は答えは提示していない。ただ、運命に揉まれつつ、それぞれに何かを見出していく人々がいるだけである。何が言いたいのか?と考えてもわからないけれど、読後感は爽やかだ。
 そうそう、主人公の兄・フルダン、素敵ですね。彼は実在の人物で、フランもその庶弟として実在した人物だと思われるのだが、この兄弟愛がいい!