F.M.E.2―ゴンドール・ファミリーを悼む

 (以下、ややネタバレあり、原作と映画を知る人向けのようでそうでないようでもあり、微妙なので自己責任でお願いします)
 さてさて。
 LotR第2部二つの塔(TTT)だが、…ここで個人的に問題にしたいのは、概ね好評だったこの映画の中では珍しく批判の多かった、執政にして大公デネソール公の次男殿下、後の執政にしてイシリエン大公ファラミア殿下の「改悪」である。

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star映画で見て感動したので買いました。
starやっぱそうだよね。
star劇場公開もSEE版で観たかった・・・

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 昨日の記事を読んで下さった方で鋭い方は既にお気づきかもしれないが(笑)、私が肩書と敬称をつけずに呼ぶことはできない数少ない方の1人である。(いや、王様はね…レンジャー時代の方がどっちかというと好きだから(笑)。「陛下」って言っちゃうとムズムズしちゃうというか、ご本人もしっくりこないのではないかと。)
 色々な見方があるだろうし、私も勿論原作全体が好きだが、肩入れしているパートは基本的に人間族、とりわけゴンドーリアン、その執政家である。
 とはいえ、この「改悪」を巡っては、どこがどう変えられてる!とか、ここが特にひどい!とかは、既に詳しいことはもう多くのファンによって語られているので、ここでは繰り返さない(例を挙げれば、素晴らしい台詞の多い殿下なのに、そのうちの1つが全く逆の意味で使われていたのには呆れた…とかだが。名言についてはこちらのサイトhttp://www.01.246.ne.jp/~flora/book/book-top.htmを参照)。検索して頂ければ、映画公開時に比べればファンサイトも激減しているだろうから難しいとは思うが、何かしらは引っかかるだろう。そして勿論、原作ファンで映画も観た方はご存じのことだろう。
 「中つ国Wiki」ファラミア二世の項:末尾のコメントでの議論で何となく雰囲気はわかるだろうか。
 http://arda.saloon.jp/index.php?%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%82%A2%E4%BA%8C%E4%B8%96
 あのTTTを観て、原作ファン、特に原作の殿下ファンで、納得できた人はいないだろう。(まあこれは、原作の殿下を嫌いな人はほとんどいないという前提だが)
 今回TTTのSEE(完全版)を観直したのも、監督を含め脚本の3人のコメンタリーを確認するためだったのだが、やはり初めてコメンタリーを観た時同様、この「改悪」への批判に対しては納得のいく説明ではなくほとんどが言い訳に過ぎないと思った。それは彼ら自身もわかっていることだろう。実際、このコメンタリーで、女性脚本家(フラン、フィリッパ)のどちらかは、「ファラミアを原作以上に葛藤させようと決め」、「ベストを尽くしたが」成功はしなかった、と認めている。しかも、基本的にコメンタリーはスタッフのものは自画自賛が多い中で、この3人が自分の失敗を認めていることも非常に珍しい。
 失敗に気づいたのは、完成してからだったともコメンタリーにはある。
 何故編集段階で気づいてくれなかったのか…。
 ラスト近く、殿下がオスギリアスでホビット主従の解放を決めるあたりとその後ぐらいでのコメンタリーでも、「ファラミアについてはもっと時間があれば」と言っているのだが…
 それこそ正に言い訳で、ファンが批判しているのは、これだけの大作を作るのには時間も大変だし取捨選択も大変なのは十分わかった上で、「他のキャラクターに比べて」明らかに殿下が―ひいては父と兄が―矮小化され、原作とは似ても似つかぬただの敵役(これなんか兄君も正にそうだが…逆に、TTTでの殿下の描かれ方を観て、FotRでの兄君の酷さも納得がいったのだが)になっている、ということなのである。
 むしろ原作以上に素晴らしくなっているキャラクターさえいる中で、何でこの、殿下、及び殿下を含めた執政家3名が、かくも貶められているのか…と。
 時間が無かったのは、作業の時間と、他に描くべきことがあった、の両方の意味だろうが、後者においては、ここまで殿下を「改悪」するよりは、他に削れる場面は沢山あったと思うのは、単なる贔屓目ではないと思う。まあ編集も所詮は主義主張の問題だが…
 まあ今更熱くなる気もないので筆を抑えるし、この失敗1つでこの素晴らしい作品全てを批判するつもりはない。原作以上に素晴らしくなって、私もとても満足しているキャラクターもいるし(そりゃ王様ですがな)、原作にない場面を敢えて作ることで更に効果的になった例さえも多々あり、後者に対しては本当に凄いと思う。あくまでも、脚本全体としては、限りなくベストを尽くすよう努力したことと、素晴らしい結果になったことはわかる。
 それに、原作から見れば明らかに「改悪」であれ、やはり「弱味のある人物の方が感情移入しやすい」ということをあらためて思わせてくれたということは言える。
 ただ、弱さや迷いを強調することによってより魅力的になったアラゴルン(原作ではやや完璧すぎるか…。原作の登場人物は概ね透明感が強く味方側の人物にはアクがなさすぎるとも言える)に対し、脚色がモロに裏目に出たのが殿下なのである。
 そして、あるキャラクターについて「時間が無かった」「失敗した」と認めることは(よっぽど、この問題に関しては叩かれたんだろうと推測する…今はファンの正当な批判(これはいいことなのだが)も「叩き」もダイレクトに作り手に伝わり、そんな義理はなくてもファンへの説明が求められる時代だから作り手は辛い)、そのキャラクターが元々一番心が行き届いていなかった、と認めているのと同じなのである。優先順位が最後になった、と。
 ならば何故最後になったのか。
 …単純に、「主人公は指輪を持ったフロド」「アラゴルンの逡巡を原作よりも強調する」という大きな基本線から、最も遠かったのが執政家の存在なのだろう(それに、王の帰還を描けば描くほど執政家は邪魔なのである。原作では、王不在の王国の3000年の歴史も全て重要なので、単純に敵役になどならなかったのだが…)。正に、天秤の一方から真っ先に零れ落ちたというか。
 映画では単なる邪魔者になっているものの、あそこまでデネソールが王様に敵対する理由は、原作を知っていれば、1歳違いの2人の昔からの確執(王様の傭兵ソロンギル時代)故である、と脳内補完できる(父親が自分よりも重用する謎の傭兵をデネソールはどんな気持ちで見ていたのか?追補編には彼のライバル心も描かれているし、しかもソロンギルの正体を彼は知っていたのだ。もうこの2人のドラマも気になって気になってしょうがない…)。
 執政家全体については第3部RotK(の、それも、揃い踏みするのはSEEのみ!)で描写されることになるので、話をTTTに戻すが、TTTでの殿下の登場場面は、正に「ドラマツルギーによる犠牲」である。監督に言わせれば、だれてしまう話を盛り上げるために、TTTの原作では存在の弱い指輪を映画としては強調する必要があったとのこと。そこで丁度敵役を振られてしまったのが殿下だったというわけだ。確かに、映画的には主人公はあのあたりで「新たな敵」に出会わねばならず、原作での殿下の物凄い「いい人」っぷりでは、そのまま映画にしたら話が停滞してしまう…のかもしれない。しかしこれは、あくまで監督のコメンタリーという名の言い訳による、結果論に過ぎない。原作者トールキンにとってはむしろ、学者肌で”詩人の心を持つ”殿下はお気に入りだったようだし(基本的に「原作への罪」は奇跡的に少ない映画だが、これは正に数少ない罪の1つ。)、弟殿下の高潔さがこれでもかこれでもかと描かれることで、あのRotKでの家族の悲劇も胸に迫る(結局、この戦争で家族全員を亡くしたのは殿下1人なのだ)。
 文章で読めば普通に―多少いい人すぎようが話がだれてようが(あくまでも監督の言い分だが)―その通りでよくても、映画ではよりドラマツルギーが求められる。その矛盾にモロにはまったのが執政家3名であり、原作と映画の間の溝にボロボロ落っこちてしまった悲劇の一家である。
 …という現実を、僅かながらも救うのは、TTT終盤の、SEE用追加場面である。ここで、劇場版ではついになかった父子3人の揃い踏み。(RotKのSEEでも、父の見た幻である兄君を加えて3人揃う場面がある。)
 しかし!
 やっぱりこの程度でも、改悪の正当化にはならんのである。脚本家は「ファラミアの性格がわかるわ」と言っているが…全然違う!
 もうとにかく、元々(執政家3名が)映画という制約上、心を割く暇のないキャラクターなら、大人しく原作通りかもしくは出演場面を単純に削ってでもくれればいいものを(物凄く削られたエオメルファンには微妙だろうが…)、「できないなら初めからいじるな」と、今となっては言いたいだけだ。
 戴冠式だってさぁ。本当は新執政であるファラミアが仕切ってたのに…。これも、整理のために出番を削ったというより、それまでの描き方がまずかったから突然かっこよく執政にできなかったからだよね…もう歯車が狂ったってのはこのことだ…。原作で慰めるしかないな。
 今回コメンタリーは確認したが、もう腹立つから今後はコメンタリーは見ないで、追加場面は虚心坦懐に楽しもう。兄弟揃い踏みをうるうるしながら見よう。
 原作ファン、原作の殿下ファンにとって、本当の救いは、この追加シーンでの、デネパパ(と、私は呼んでいる)こと執政デネソール役のジョン・ノーブル氏のコメンタリーだろう。彼も、他の出演者同様かそれ以上にかもしれないが、自分の役柄を物凄く深く研究したようだ。それなのに、彼もまた、劇場版ではただのバカ父になってしまっているのだが…(まあ元々父子心中なんてのは確かにアレだが…)。(ちなみに、私は偶然、先に別の映画―オーストラリア映画―で彼を観ていた。貫禄というか知的というか、物事をふかーく考えそうな役が似合う人である。ファンは、映画に捉われず、デネソールのそれまでの苦悩に思いを致したい所である。)
 ノーブル氏が、父と次男の不仲を示す場面で、兄弟の母で執政の亡き妻・フィンドゥイラスについてまで言及しているのは、原作ファンには嬉しい驚きである。 
 父が長男を偏愛し次男を貶める理由としては、原作でもさほどはっきりと描かれているわけではないが、愛妻が次男を産んでほどなく亡くなったからとか、自分と似ていないからだとか、いや似すぎているからだとか、色々な説はある。ノーブル氏はそのあたりのことも色々考えて下さったようである。有難いことである。手を合わせたくなる。神コメンタリーや。
 考えてみれば、本当は、このデネソールほど、息子に恵まれた父親はいないのである。ただ、どちらかといえば、大きな視点が必要になる「執政」という地位には、兄よりも弟の方が向いていたのかも…と推測させられるような原作の描写かもしれず、そのあたりに、好きだけど嫌い、愛してるけど愛せない、という父の葛藤があるのだろう。
 それと。
 原作では、兄は最初アラゴルンに似ている、と描写される。同じゴンドーリアンだから当然なのだが、2人ともゴンドーリアンらしい黒髪と灰色の眼である(瑣末な話ではあるが、レゴラスの眼をコンタクトとCGでわざわざ青くするんならアラゴルンも灰色にすりゃあよさそうなもんなのに、元々ブルーアイのヴィゴの眼はそのままである。トールキンが「灰色の眼」と言う時は非常に神秘的な意味があるのだが。このへんはハリウッド的都合なのだろうか…)。そして殿下もまた、登場すると、兄に似ていると描かれる。しかし、映画版では、単純に、キャラクターの区別がつかないと困るからだろうが、兄君は役者の翡翠色の目のままで、くすんだ金髪である。で、結果的にこれがRotKで眼にすることになる、黒髪と暗い顔立ちの人の多いゴンドーリアンの中で浮いてる浮いてる(笑)(いや鎧着てる追加場面ではまだマシなのだが…FotRでは衣装も顔立ちも派手だし!)そして殿下もまた、映画でのD.Wenhamはブルーアイで、ウィッグは金髪に近い、亜麻色というか…いつも汚れてるからわかんないのだが、綺麗にするとほぼ金髪である(エオウィンとの2ショットはもう、夢のように美しい…)。ところが、父デネソールは、これはもう原作も原作通りの、最もゴンドーリアンらしいゴンドーリアンというか、白髪の多い黒髪に、青くない眼、何かくらーい顔つき(笑)。というわけで、この謎多き3人が、映画版では、偶然だが、兄弟が2人共明らかに(父親に似ていない以上)母親似だろうと思われる容姿になっているのは面白い。その母親というのが、恐らく金髪の美女で、ちょっとゴンドールには珍しいタイプという(ほっそりしてて、白が似合って、エオウィンをもっと人間離れさせて儚げにした感じだろうか?)。トールキンは、自作中のカップルには必ず年上の妻への熱愛を投影しているし、その妻を先に亡くしたことは彼にとって世界の終わりだったとも言われているぐらいなので(でも自分と妻の墓に「ルシアン」と「ベレン」は流石にアブナいような…)、やはりこの家族の問題の鍵を握るのは、母親の死ということになるのだろう。