あいづ・そうかつ・3・線路は本当にどこまでも続く

 喜多方に行く前に、話をちょっと戻す。
 会津くんだり(会津の方済みません)まで「行ってみよう!!!」と思った最大の、直接の理由は、「東武に馴染みがあった」からである。
 毎朝使っている地下鉄半蔵門線(未だに東京メトロと言いたくない)が、かつての「半蔵門行き」から、「三越前行き」(三越は銀座線の「三越前」の方が便利だけどね)、「水天宮前行き」と弛みなく延長した挙句、とうとう「押上」まで伸びて東武線に乗り入れてしまった(そのせいで毎朝のように「東武線からの進入遅れ」で遅れるのは大変困る)。
 従って、この線には従来の東京メトロ車両(紫のライン)と東急車輛(赤いライン)に加え(この2本は長津田or中央林間〜押上)、押上より先から来る東武車両(赤茶色のライン)も走っている。 
 この東武車両に乗ると、吊り広告は当然全部東武関係。東京ど真ん中で、全くわからない地名のオンパレードで、朝っぱらから目が回る。甚だしきに至っては、「東武ワールドスクエア電車」(車両の外側に東武ワールドスクエアの写真)まで来る。何で東京場末のど真ん中でワールドスクエアかと思うが(それを言ったらどうして世田谷の「用賀」で待ってて「押上」行きやら「南栗橋」行きが来るんだか…「田園調布」で「新高島平」行きのショックと同じである)、運命なので仕方がない。
 そんな東武車両の中に、このところ「東武会津」なる吊り広告がひらひらしている。
 昨年日光に行った時も、つくづく北関東は東武世界だなあと思ったのだが、実にこの、半蔵門線東武線乗り入れによって、押上まで繋がってその先に行く電車もある、ということは、マジで福島県まで東京とよりまっすぐ繋がってしまったのである。東武線乗り入れといえば、既に日比谷線が私にとって最もわからない地下鉄なのだが(未だに、六本木から恵比寿に移動するのにどこ行きに乗ればいいのかすぐにはわからない)、スケールのでかさでは、この半蔵門線は、(伊勢崎線乗り入れだったか)東武動物公園止まりの日比谷線の比ではない。
 この東京場末の、私の乗る駅は(そもそもこの駅ができたのも東武線乗り入れのための延長のお蔭だが)、理屈の上では会津若松まで繋がってしまったのである。
 何度か同じホームで(これ重要)乗り換えるだけで、基本的にはずーっと乗っていれば会津若松に至る。ということはつまり、毎朝東京場末で足許に見下ろす半蔵門線の、この同じ線路のまま、会津若松に行けるのだ!!
 実際、会社帰りに東武車両に乗って、路線案内図を見ると、本当に会津若松まで書いてある!(途中、野岩鉄道会津鉄道を含む)。
 つまり、中央林間に住んでいる人でも、東武車両に乗れば、その電車ははるか会津まで行くということになる。神奈川の、地名で言うと鶴間とかそのあたりから、はるか、会津。(三崎口から印旛沼に至る京成・都営浅草・京急の恐怖のベッドタウン電車をも超えた!)
 すごいぞ電車。
 この、「地上をどこまでも走る」ということには、非常にロマンを感じる。北京にもロンドンにもパリにもハワイにも行っているのに、何故か「電車に乗って行く」でなければ嫌な時がある。今回の会津の旅も、「とにかく電車に乗ってどんどんどこかへ行きたい」→「東武だったら乗ってれば会津ってまっすぐ行けちゃうんだよね」→「会津にはいっぺん行ってみたかったから丁度いいや」だった。
 今回、東京都内から会津若松までは、半蔵門線某駅→急行南栗橋行きで北千住(押上の次がすっ飛ばして北千住)→スペーシア鬼怒川温泉野岩鉄道会津鉄道→そのまま乗ってても西若松からはJR只見線会津若松→そのまま乗ってても磐越西線に入って喜多方まで延長運行、だった。同じ線路が喜多方まで!!!!(ちなみに、「栗橋」は奥州街道の宿場だったそうである)
 よく、鉄道による植民地支配などのことを、脆弱というニュアンスを込めて「点と線」と言うが(まあ飛行機で土地は占領できないから当然だが)、形の上では「点と線」なのは飛行機の方であって、やはり線路を敷くということは沿線の土地の支配なのである。何か地に足が着いてる気がする(そりゃ飛行機じゃ着いてないわ)。この「地に足」感も捨てがたいのである。(私は鉄道マニアではないのだが、人任せタイプなので車の運転より車窓から外を眺めている方が好きだ)
 そしてこの、「線路を敷く」ということ。先日読んだ『フレンチ警部と漂う死体』は、イギリスから中東に至る豪華客船の乗客の死体が海上で見つかり、フレンチ警部は渋々この船の客となるのだが、船に乗る前にそこそこしっかり、イギリス国内での列車の話が出てくる。この話に限らず、クロフツ作品には、元技師らしい、交通に携わる人々への愛着が表れた記述がよく見られるのだが、私はこの国内での列車の部分に惹かれた。また、この客船の旅は、水路ではマルセイユで終わりだが、旅程としてはフランスを縦断して列車でパリに戻り、またカレーから船でイギリスに戻る。ヨーロッパでは、「鉄道当然」なのだ。勿論、オリエント急行なんてものまで作ってしまった。
 ヨーロッパ人は鉄道の民族である。行きたい所があれば、そこまでどんどん線路を敷く。
 元々西洋というのは、必要から道具が発生する。下手に器用な日本人(アジア人、と言おうか)は、道具を発明するより工夫してしまう分、近代では損をした。日本人は、(狭い国とはいえ)行きたければひたすら歩いた(そういえば、ヨーロッパではメジャーな長距離移動手段だった「馬車」も、人を乗せるという発想がなかった!)。関所を整備し、馬の駅伝を完成させ、更には、江戸時代には世界有数の正確な戸籍制度で移動する人間を管理できた。これはこれで凄いことなんだが…植民地を持ち、どんどん線路を延ばす歴史とは根本的に発想が異なる。
 真面目に歩いてきた日本人も偉いが、「行きたゃ線路敷いて列車通しちゃえ」というパワーも凄い。
 と、そんな発想の末に、日本でも、東京場末のど真ん中(しつこい)から、あの遠く空の広い地まで、同じ線路になった。
 どこまで行っても田んぼ田んぼ田んぼ田んぼ遠くに山、空は余りに広い、という、東北の景色を眺めながら、この線路は、元を質せばあのピンク色の狭苦しい地下鉄の駅の1つから始まっているのだと思うと、とても不思議で、それでいて快い気分を満喫した。電車ってスゲエ。東京都内を短距離しか乗らない私にすれば、乗り入れは普段迷惑することが多いが、たまにはこんな楽しみもあるというわけだ。
 日本の電車の狭さは、結構堪えるが…
 スペーシアもその先も、特に野岩・会津鉄道は車両はそこそこきれいなのに、席の前後が狭い…。私ですら狭いのだから大の男には拷問に近いだろう。
 相方によれば、それは車軌が狭いからだそうだが。(インドに行くと、植民地時代に車軌がバラバラなまま線路を敷いたので、広い車軌の内側に狭い車軌の線路が走っていたりする。)
 ただでさえ狭いのに、新幹線は個室もなくなってしまった。子供連れなどには気兼ねなくていいはずなのだが、写真で設備を見る限りでは、快適な旅をというより仕事向きという感じがするので、IT化が進んで電話もネットも普通の席でできるから廃止されてしまったのかもしれない。まあ元々ヨーロッパと違って乗っている時間も短いというのもあるだろう(短くても楽に越したことはないのに!)。ヨーロッパの長距離列車になると、子供用のプレイルームまである。「旅」の発想そのものも違うのである。日本人は何かにつけて不便を耐え忍ぶことに喜びさえ見出し、旅では不便も楽しみにするが、ヨーロッパ人は、あくまで快適なのが好きらしい。世界のどこに行っても、強引なまでに自分たちのスタイルを貫き、押しつける。植民地を持つ国持たない(持てない)国の違いもこのあたりにありそうな気がする。日本だって近代には同じ事をやったがどうも付け焼刃で、山田風太郎も指摘しているように、旧ヨーロッパの植民地とは現地の人々の感情がまるで違う。勿論、人の国を武力や経済力で支配することは道義的に許されることではない。ただ、単純に比較した場合、「支配する立場」の年季が違うなと、やっぱり思うのである。(ついでに言うと、日本は旧幕藩体制という政治はともかく、食べ物や自然においては、豊かで幸せすぎたのかもしれない。「イギリス人は母国の不味い飯に慣れているから、どこの国も飯も美味く感じ、世界制覇できたのだ」というジョークさえある。また、他国特にインドの美味いもんは、特にイギリスでいくつもの「インド風カレー料理」にアレンジされた。日本のカレーも、インド帰りのイギリス人によって発明された「カレー粉」による、既にバイアスがかかったものである。)
 なお、東武の特急スペーシアには、家族向けなどに便利な個室もある(別料金)。いつか家族が増えて日光詣ででもすることがあれば是非利用してみたい。