クリスティー再読はまだ当分続く

 今週はアガサ・クリスティー文庫でのクリスティー再読をボカスカ。
 いやー懐かしいっすねえ。小学生、20代半ばときて、30代で三度の読み直し。やっぱり、自分が変わるとまた新しい楽しみ方もあるし、昔はこういう所が楽しかったんだよね、とあらためて思い出すこともあるし。
 『秘密機関』、『NかMか』、『ポアロ登場』、『ビッグ4』、『火曜クラブ』、『カリブ海の秘密』、『復讐の女神』、『クリスマス・プディングの冒険』、『ハロウィーン・パーティー』、『書斎の死体』、『バートラム・ホテルにて』…
 このへん、まだ色々書きたいのですが…
 とりあえず思い出せるところから(というのが、批判なのは申し訳ないけれど)。
 この新しい文庫では何がどうって、とにかく、「新訳」と謳ってるものに限って、誤訳&珍訳が目につくのが腹が立つ。
 中村妙子版『ビッグ4』。最初の方で、”ビッグ4”の3人目は女性で、というくだり。「デミ・モンド」が「地下の世界」??。わざわざ田村隆一さんの訳だったのを変えてまで新訳にして何コレ?(しかも中村さんって、クリスティー作品は何作も何作もなさってるし、クリスティーに関する著作もある方なのに…)「デミ・モンド(ドゥミ・モンド)」とは”裏社交界”のことであり、「デミ・モンドの女」と言えば一見貴族の女性とも見紛う「高級娼婦」を指す言葉。つまり、ビック4の3人目である女性は、当時の、貴婦人然として(しかし本物の貴婦人からは厳然と一線を画されて)社交界を渡り歩く女の中にいるかもしれない、と言っているわけです。それが「地下の世界の魔物」????この言い回し、文学の常識なんですが…。この部分はビッグ4の面々が大体どういった人物か(男か女か、社会的地位など)を述べている部分なので、「地下の世界の魔物かもしれぬ」では全く意味が通りません!フランス文学に関する情報も入りにくかったり色々な言葉の意味も知られていなかった30年前ならともかく、これが新訳ですよ?
 真崎義博版『ポアロ登場』。「フル・ロードの状態」?何で「弾を全部こめた状態」じゃいけないの??わざわざ何でカタカナのままにする意味が??
 あとこれは、長く親しまれてきたタイトルそのものを変えるかどうかであって訳者だけの責任ではないので「誤訳」と言っては申し訳ないのですが、山本やよい版『書斎の死体』。
 原題The Body in the Libraryの、Libraryを旧版と同じく「書斎」と訳した時点で実はアウト。Libraryはこの場合そのまんま「図書室」。でも、お屋敷にある図書室というのは所謂「図書室」ではなく、ややこしいんですが、本もあるけど親しい人だけを招き入れるちょっとした居間や、それこそ本物の「書斎」に通す前にお客さんにいてもらう「待合室」のような役目もある部屋のこと。よく海外の小説や映画で、客が執事に「図書室でお待ち下さい」って言われる、あの図書室です。Libraryには確かに書斎という意味もあります。しかし当時のイギリスのお屋敷では書斎とは主人以外の人間は入れない、本当にプライヴェートな部屋のことです。また、作中で、屋敷の主人の妻が「よくこの部屋でくつろぐ」と言っているので、これは正に居間の一種であって、書斎ではありえません。
 でも日本語に適当な言葉がない?それを探すのが「翻訳者」でしょうがっ!!少なくとも、「書斎」じゃなかったんですよ、死体があったのは。
 翻訳というのは、だから、「英語ができる」だけの人ではつとまらないもの。英文学以外の文学や他の国での言い回し、単語の様々な用法、当時の社会風俗など、正に丸ごと知らなくてはできないことです。
 勿論、翻訳には素人なんで全体の苦労については窺うべくもないですが、要は、こうした小さいこととはいえ、素人にもわかるようなミスは、プロなんだからしないでほしいということです。しかもわざわざ「新訳」という期待を持たせてるわけでしょ?
 新訳とは単に現代的な言葉や言い回しにすることだけだと思ってるんでしょうか。はっきりいって、旧版のままの作品の方がずっといいです。読み直して、「そうそう、この(訳文による)雰囲気がよかったのよ」って思い出しました。
 何というかもう、早川の編集部は「翻訳者のセンセイ」には頭上がんないんでしょうねえ。まそれはある程度仕方ないとしても、折角リニューアルする機会ができたのだから、他の詳しい人にも目を通してもらうとか、つまり時代考証、歴史考証ですね、それが本当に「直す」ってことでしょう。何かできなかったものですかね。あるいは、「歴史の本じゃないんだから意味さえ伝わればいい」と思われているとしたら、それこそ小説や、優れた表現者(本当に、風俗描写を通じた人物や心理の表現の技が素晴らしい)であるクリスティーに対する侮辱であって、そんな編集部に扱ってほしくないですね。
 ブログの方に書いたけど、とにかく取り組みがハンパです。全面リニューアルしたという割には半分以上が旧版のままで、しかも新訳にしたものに限ってろくでもない。
 本当にまともな出版社の仕事なんだろうか。